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目標を持つということは憂鬱なことである

大好きな村上龍のエッセイで、「無趣味のすすめ」という本があります。

「GOETHE」という男性誌に連載していたエッセイを纏めたもので、ハードと文庫両方購入するくらい内容が気に入っています。

中でも、「夢と目標」というタイトルの章は全文紹介したいくらい素晴らしいのですが、それだと私がこの文章を書く意味が全くないので、自分なりの考察も交えて紹介したいと思います。

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目標とはあらゆる局面における前提

目標というものは、「持つべきだ」とか「持ったほうがいい」ものではなく、「持たなければいけない」とわざわざ啓蒙するものでもない。
人生のあらゆる局面における「前提」なので、そのことがコンセンサスになっている社会では目標を持つことについて語られることはないからだ。

目標は、あったほうがいいという程度のものではなく、本当は水や空気と同じで、それがなければ生きていけない。
目標を持っていなければ、人は具体的にどういった努力をすればいいのかわからない。
ものごとの優先順位もつけられない

目標とは水や空気と同じで、なければ生きていけない。
確かにそうなのですが、自分はそこまで日々目標を持って何か具体的に努力をしているかというと、全然そんなことありません…

「何をやりたいか」というのがあって「どうやるか」となる。
目標=ゴールだとすれば、到達したいところがあって、そこに辿り着くまでの手段なり方法がある。

それが無いということは、自分が何処に向かおうとしていて、今やっていることがそこに繋がっているのか自分で把握していないことになります。

夢と目標の違い

目標とニュアンスが似ていて、まったく概念が違うのが「夢」という言葉だ。
何か具体的なものを目指す人にとって、実現を図ることは夢なんかではなく現実だ。
夢という言葉がこれほど流通しているのは、個人的な目標を持つことが人生の大前提だというコンセンサスがない社会だからだろう。

「夢」という言葉を「目標」に置き換えた途端現実味が増すのは、夢という言葉自体に「実現できなくてもいいもの」という言外のニュアンスが含まれているからではないかと思います。
私もこれを読んでから、「夢」ではなく「目標」という言葉を使うように意識して変えました。

目標は語られるものではなく、達成されるもの

夢は、常に大っぴらに、屈託なく楽しそうに語られる。
だが目標はそうではない。
目標は達成されるべきもので、語られるのもではない。
達成のための努力を続けている人は、他人に自分の目標について語るような時間的余裕はない。
いまだ達成されていない目標は、他人に語ることで意志が「拡散」する。
目標は自らの中に封印されていなければならない。

これは意見が分かれると思うのですが、目標を公開して自分にプレッシャーを与えるという方もいると思います。
そしてそれはそれで効果のあるやり方だとも思います。

ただ私は昔から、何故か大事なことほど他人に話さないタイプの人間でした。
それは村上龍の言う「意志が拡散する」ということを理解していたのではなく、他人に話すようなパワーが無かっただけだと思います。

その目標に対して自分が真剣であればあるほど、軽々しく他人に話せなくなるのです。
他人に話す、という行為自体がすでにシリアスなものになってしまうので、そんな疲れることはやりたくなかったのです。
目標は自らの中に封印されていなければならないし、一度目標を設定してしまうと、達成するための努力を開始しなければならない。

だから目標を持つのは基本的に憂うつなことなのである

というお話でした。

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コメント

  1. […] 以前こちらの記事でも紹介しました。 ➤「目標を持つということは憂鬱なことである」 […]

  2. […]    「目標を持つということは憂鬱なことである」    「ビジネスにおける文章」 […]

  3. […] 参照:「目標を持つということは憂鬱なことである」 […]

  4. […] 参照: ・「目標を持つということは憂鬱なことである」 ・「ビジネスにおける文章」 ・「年齢というエクスキューズ」 ・「相手の立場になって考えるということ」 […]