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コミュニケーションが成立するという幻想

10月からジョギングを始めました。

まだ初めて2ヶ月ちょっとですが、出来るだけ毎日走ろうと思っています。
小さなことでも、何かひとつのことをやる遂げることは大切で大変なことだと感じながら最近の日々を過ごしています。

コミュニケーションをとる、すなわち誰かに何かを伝える、ということについても、同じく大切で大変なことだと私は考えています。

それは周りをみていて、明らかに情報の伝達が不十分であるのに、当の本人達がそのことに気付いていない、という光景をよく目にするからです。
伝達が不十分であるのにそのことに気付かない、気付かないふりをするというのは、「理解されただろう」「分かって貰えただろう」「そのへんのことは気付いてくれるだろう」という一方的な期待と、「たぶんこういうことだろう」「きっとこういうことが言いたかったんだな」という勝手な解釈が双方において横行している状態です。
しかし、私が考えるコミュニケーションが成立しないことの最大の原因は、「自分の言いたいこと、考えていることは伝わるはずだ、伝わらない訳が無い」という、盲目的に定義された日本人のコミュニケーション感覚だと思います。
「伝わること」が前提で会話がされているのです。

私は、自分の言いたいこと、考えていることは「伝わらない」ものだと思っています。
伝えることを放棄しているという意味ではなく、何かを伝えということはものすごく切実で、大変なことなんだという前提に基づいてコミュニケーションをとろうとしている、という意味です。

その前提が変わるだけで、「伝える」という行為における自分の姿勢が変わります。

必要な情報を伝えるという行為において、その重要さを痛感出来る一番分かりやすい例が海外に行った時です。

言語が違うので、自分に伝えたい情報があったとしても、自分がその言語を操る能力が無ければ何も出来ません。
何も出来ないというのは、食べ物すら頼めないということです。
自分はハンバーガーを頼みたいのか、ビールを頼みたいのか、それすら相手に理解してもらえない。
経験のある方なら分かると思いますが、これは相当なストレスです。

感情を上手く「表現出来ない」というレベルではなく、自分はそもそも伝える術を持っていないという現実に直面したときに初めて、自分には伝えるべき情報があって、そのことをきちんと伝えられるということの重要さに気付くのです。

他国と隔離された島国の日本では、文化も歴史も宗教も異なる集団や個人に対して、生存の為に必死に何かを伝える、ということが必要とされてこなかった為、この本能的な危機感が希薄なのではないかと個人的に考えています。

”理解されていない、理解してもらえないかも知れない、
そういう危機感を持つところから、コミュニケーションは始まる。”

だから私は、「伝える」ということに対して真摯でありたいし、真剣でありたい。
上手いとか下手とかではなくて、そういった危機感を持って「伝える」という行為に臨みたい、ということです。
自分の考えていることや感じたことなんて、形も無く自分の中を彷徨っているのだから、それを言葉にして相手に理解してもらうなんて大変に決まってる。
それでも伝えたい何かを自分は持っているか、だけです。

”「伝えた」ことではなく、「伝わった」ことが情報だ”

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コメント

  1. […] 参照:「コミュニケーションが成立するという幻想」 […]