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オーガニック少女

最近めっきり寒くなって、夜走りに出るのがおっくうになってきた。

でも一旦走ることを止めてしまうと、そのままずるずると走らない日々に戻ってしまいそうで、震える体にむち打ち外に出る。

こんなことするくらいならいっそのことジムにでも通おうかなと思い始めている師走の第3週目。
天気に左右されないって、継続していくためにはとても重要な要素だと気づく。

先日、いつもと違う道から帰宅してみた。
理由は単純に「いつもと同じだと飽きるから」というものだけど、何やら小綺麗なスーパーが出来ていたので立ち寄ってみることにした。
ウイスキーを切らしていたのを唐突に思い出したのだ。

そのスーパーは、普段私が行くようなスーパーとはあらゆる点で異なっていた。
雰囲気、価格、客層、駐車場の車幅さえも広く感じられたがそれはきっと私の勘違いだろう。

私は目当てのウイスキーを見つけるとすぐにレジへ向かった。

そこで、6歳位の少女が店員に話しかけているのを見かけた。
別にスーパーに6歳の少女が居てもおかしくはないし、母親と一緒に来ているのかもしれない。

だが彼女が発した言葉は、少なくとも私を驚かせた。

「オーガニック納豆下さい」

私は、「オーガニック納豆なんかより、ウイスキーのほうがおいしいよ」などとは思わなかった、もちろん。
だけどその光景は私にとって、「当たり前」ということを改めて考えさせるきっかけとなった。

彼女は、「オーガニック納豆」なるものの存在意義や効力を自分で理解して、純粋に「オーガニック納豆」を欲しているのではないと思う。

単に、「オーガニック納豆」を食べる、無くなったら買いに行く(お金をもらって)、という行為が彼女にとっての「日常」であり「普通」なのだ。

そしてその「日常」や「普通」といったものは環境が形作る。
きっと彼女は裕福な家庭に生まれ育ち、「オーガニック的な」生活を送っているのだろう。

だから彼女が幸福だというわけではなく、世の中には6歳でオーガニック納豆を食べることが当たり前の子どもと、そうではない子どもがいるというだけ。

私たちは、自分たちが過ごす環境によって「当たり前」という概念を教えられる。
そしてそれを実際に体験することによって、「当たり前」感を強化していく。

その少女は、「オーガニック納豆を食べなきゃダメよ」と教わるのではなく、実際にオーガニック納豆を食べ続けるという体験を通してそれを自分の「当たり前」として確立する。

しかし、それは彼女が自分の意思選択を通じて自ら獲得した「当たり前」ではない。
あくまで外的要因での「当たり前」なのだ。

今あなたの中にある「当たり前」は、自ら選び取ったものなのか、他者から植え付けられたものなのか。

あなたの「当たり前」とは、誰にとっての当たり前なのか。
「当たり前」という概念を疑ってみる。
そういった視点を持つことが、新しい発見に繋がるのではないかと思っている。

➤➤➤
この記事はChikirinさん(@InsideCHIKIRIN)のこちら記事を読んで書いてみました。

➤「伝えたいメッセージを文章にする、ということ」

スーパーに行った云々の話は@Jazzy_T81さんの実話を元に私がでっちあげたフィクションです。

➤いつもは行かないスーパーで見た格差

書いている途中で応募締切を過ぎていることに気付きましたが、途中で止めるわけにもいかず最後まで書きました。
そしてダメ元で送ってみます。

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