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誰にでも書ける記事と、自分にしか書けない記事

私はこのブログで、大きく分けて2種類の記事を書いている。

ひとつは「◯◯を✕✕する方法」といったハウツー系の記事で、もうひとつは自分の体験や考えをベースにして書く記事だ。

例えば、以下のような記事は前者にあたる。

iTunesを再インストールする方法
自分のPCのIPアドレスを調べる方法(Windows編)
iPhoneをiTunesと同期させずにバックアップだけ取る方法
Google Chromeで新規タブ画面に閲覧履歴を表示させない方法

自分で書いておいて言うのもなんだけど、私はこういう記事は誰にでも書けると思っている。

今や、ネットで調べれば大抵のことは分かる。
自分で情報を集め、既に持っている知識と掛け合わせ、再構築する。
それを出来るだけ分かりやすく、見やすく書く工夫と手間を掛ければ、こういった記事を書くのはさほど難しいことではない。

勿論、扱うテーマがものすごく専門的な場合や、体系的な知識と経験が無いと書けないような記事もあるだろう。
だから、ハウツー系記事の全てが誰にでも書けるというわけではない。

だけど、「出来るだけ分かりやすく、見やすく書く工夫や手間を掛ける」ということを疎かにしなければ、比較的容易に書けるものだと思う。

なぜなら、それは「既に知っていること」を書いているに過ぎないからだ。

一方、自分の体験や考え方を文章にする場合、単に事実や感想を述べたり、一方的な極論を展開するだけではいけない。

そこには「自分にしか書けないこと」が含まれている必要がある。

例えば、以下の記事でカンボジアを訪れた時に感じた幸福感について書いた。

参照:『カンボジアのカフェで感じた幸福な瞬間

カンボジアのカフェで感じた幸福な瞬間
空港から一歩出るとそこには、灼熱の太陽に晒された椰子の木が黄土色の土の上で葉をなびかせていた。 懐かしいような、でも初めて嗅ぐ匂い...

これは、「カンボジアに行った」ことと、「そこで幸福を感じた」という両方の体験をした私にしか書けない。

こういう風に書くと、「カンボジアに行って幸福を感じたことのある人間は他にもいるぞ」と言われそうだが、私が言いたいのはそういうことではない。

同じ体験をしても皆が同じ感想を持つわけではないし、感動の大きさも、解釈も、捉え方も千差万別だ。

ある体験を通じて感じたことや考えたことを、自分のフィルターを通して表現することが大切なのだ。

だから、どれだけ稀有な体験をしたかではなく(それはそれでもちろん貴重だけど)、一見何でもなさそうな事実や景色でも、如何に自分の言葉と表現で文章に出来るのかということだ。

例えば、私の好きなブログ「None」を書いている小野美由紀さんという方がいる。

私が特に好きなのは、彼女の「就活こじらせスペイン巡礼記」シリースだ。

参照:『就活こじらせスペイン巡礼記

彼女は就活中にパニック障害と診断され、「もう『自分探し』の旅でもいい!」と開き直りスペイン巡礼の旅に出る。

詳しくは是非彼女のブログを読んで欲しいのだが、そこで出会った人々や旅の風景、次第に自分が自由になっていく様子が、とても綺麗で、等身大な文章で綴られている。

これは紛れも無く、「彼女にしか書けない」記事であり文章である。

例えば私が、ネットや雑誌から情報をかき集めて、スペイン巡礼に行った風を装ってもっともらしく文章を書けば、一見それなりのものが出来るのかもしれない。

でも、そんな文章が人の心を打つわけがない。

なぜなら、私は彼女が旅の道中で出会ったであろう沢山の素晴らしい景色や経験したはずのつらさを、何一つ知らないのだから。

人はしばしば、他人の人生に自己を投影する。

彼女の文章は、読む人を惹きつけ、そこに自分を重ねてみたくなるような引力がある。

ってなんだか彼女のブログを絶賛するような記事になってしまったが、結局読む人を惹きつける文章や記事というのは「体験ベース」で書かれている。

私もそんな風に、読む人を惹きつける文章を書いていきたい。

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