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「きっと分かってもらえるだろう」という淡い期待と愚かな幻想

コミュニケーションを取るということに関して改めて思うことがあり、以前にも同じようなことを書いた気がしたので探してみたらこんな記事を書いていた。

参照:「コミュニケーションが成立するという幻想

この記事で私は、コミュニケーションとは「伝わるものだ」という前提ではなく「伝わらないかもしれない」という危機感を前提にした上で行うべきだし、そういった危機感を持つところからすべては始まる、と書いた。

この考えは今でも変わっていないし、むしろ以前よりも強くそのことを意識するようになった。

それは、私たちの社会では未だに「分かってもらえるだろう、理解してもらえるだろう」という一方的な期待と曖昧な共通認識の下にコミュニケーションが行われていると感じるからだ。

考えてみれば当たり前の話なのだけど、伝えていないことは伝わるはずがないし、理解されることもない
伝えようという意思と姿勢のないところには、理解も誤解も存在しえない。

ではなぜ、私たちは「分かってもらえるだろう」などと一方的な期待を抱いてしまうのだろうか。

それは私たち日本人のコミュニケーションが、上意下達のような一方的な指示や命令の元に行われてきたからではないだろうか。

親や教師、上司の言うことは絶対で、「それはどういう意味ですか」などど聞き返すことは許されなかった。
「空気を読む」という言葉に代表されるように、その言葉以上に、その言外に含まれる意味のほうが多く、それを文字通り「汲み取って」、理解を装わなければならない。
「以心伝心」や「阿吽の呼吸」のような言葉が美徳とされてきた社会では、理解できるまで質問を繰り返すことは「失礼なこと」とされた。

そして、「あなたは私にいったいどうして欲しいのですか。何をして欲しいのですか」というのは、開き直った態度と取られ、怒りを買うことになる。

だけど私は、満足に伝えてもいないし、また伝えようという意思もないのに、「分かってもらえるだろう」などと思うほうが開き直りだし、傲慢だと思う。
それはコミュニケーションに対する冒涜である。(決して大げさな表現ではなく)

私は、もし誰かが自分に求めるところがあるのなら、きちんとそれを伝えて欲しいと思う。
それをせずに、「あの人には全然分かってもらえない」と言われても、それは大変なお門違いだと思うのです。

言外に含む意図を読み取って欲しいと思うこと自体は悪いことではないし、そういうデリケートな会話が必要な場面もあるだろう。

しかし、伝えようという意思のない人を、こちらから一方的に理解することは出来ない。
コミュニケーションとは、伝えようという意思と、それを理解しようとする意思、双方が咬み合って初めて成立するものだと思う。

何度も言うけれど、伝えていないことは、伝わらないのである。

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