スポンサードリンク

年下なのにすごい、という表現は間違っている

 何度か過去のエントリーでも触れたけれど、訪日メディア「MATCHA」に関わるようになってから、社外での繋がり、特に年下との繋がりが多くなった。
 
参照:「今の自分に求められていることと、今の自分に足りないもの

 彼、彼女らの仕事っぷりや書く内容、そして自分たちで会社やメディアを立ち上げようという意思とバイタリティを見ていると、「年下なのにすごいなー」とか「若いのにいろんなこと考えてるなー」とかよく思う。そこからいい刺激をもらって、今の自分のあり方や目指すところを再確認したりする。

 だけど今日ふと、この「年下なのにすごい」という表現は正しくないのではないかと感じたので、今日はそのことについて書いてみたい。

スポンサード リンク
スポンサード リンク

「年下なのにすごい」と感じるのはなぜか

 改めて考えてみると、「年下なのにすごい」とは言うけれど、「年下なのにすごくない」とは言わない。
なぜか?
それは私たちに、「年下なんだからすごくなくて当たり前だ」という先入観があるからだ。「年下なんだからすごくなくて当たり前」というコンセンサスが私たちの中に厳然と存在するからだ。
 年下「なのに」すごい、という言い方自体が、自分の方が優位に立っている前提だということを暗に示している。そしてこのような表現は、その人の能力を純粋に評価するのではなく、「年齢のわりに」という本来不要なはずの修飾として機能してしまう。

 逆に、「年上なのにたいしたことない」とは言うけれど、「年上なのにすごい」とは言わない。これも同じロジックで、「年上なんだからある程度のことは出来るでしょ」という前提条件が働いている。

 こうして考えてみると、私たちは生きてきた時間の長さによってその人が具えているであろう能力や知識を、無意識に想像してしまっている。これはおそらく仕方のないことなのだろう。生きている期間が長いということは、それだけたくさんの経験を積む機会があり、より多くのものを目にしてきている可能性が「相対的に」高いということだから。

 だけど、年下なのにすごい人は年下「だから」すごいのではない。その人がただすごいのだ。逆に年上なのにたいしたことないなと感じる人がいたら、その人は年上「なのに」たいしたことないのではない。その人が単純にたいしたことないのである。

 仮に、「こいつはすごい、天才だ」と評している会社の後輩に突然、「自分、実は35なんす」と告げられたら。仮に、「あいつはほんとに働かねえな」と心のなかで見下している先輩に、「俺、ずっと隠してたけど、実は25なんだよね」と言われたら。

 それでも、その人の評価は変わらないままだろうか?もし、少なからずその人への評価が変わるのであれば、それはその人の年齢というただの「数字」をみて判断しているということになる。

 私がこういう習慣や風習に危機感や軽い嫌悪感を感じるのは、それが他人から学ぶこと、とりわけ自分より年下の人間から何かを学ぶことを阻害するからである。年齢を基準に他人を評価したり判断したりする人は、変なプライドがあり、上に媚びへつらい下には威張る。
 そして例えば、50歳を過ぎてから何かを始めようとする人を見てバカにしたり、自分より未熟な年下を見て安心する。りわけ、日本人は「年齢」というものをもの凄く意識する人種だと思う。相手の年齢によって言葉遣いを使い分ける必要があったり、その割に公然と年齢を尋ねるのは失礼にあたったりする。

 「だから日本人はダメなんだ」などと言いたいわけではなく、年齢というのはその人に付随するただの記号のようなものなのだということ。

 「年下なのにすごいな〜」なんていう文脈でしか相手を見れていない間は、自分も同じように「年上なのにたいしたことないな」と思われているのだろう。という自戒の念も含め。

 年上だろうが年下だろうが、他人から何かを学ぶ姿勢。これをいつでも忘れないようにしよう。

スポンサード リンク
スポンサード リンク

気に入ったらシェア!

スポンサード リンク
スポンサード リンク