スポンサードリンク

自分の誤りを指摘してくれる存在は貴重だ

 今まで一度も間違いをおかしたことのない人というのは恐らくいないだろう。程度や頻度の差こそあれ、誰でも一度は何かに失敗したり、何かを間違えたりしているはずだ。褒められることではないにせよ、とくべつに恥ずべきことでもない。もちろん、何かに失敗したり、何かを間違えたりすることは喜ばしいことではないし、何日も気持ちが凹んでしまうこともあるだろう。

 だが、私が一番恐ろしいというか、恐いなと思うのは、その間違いや誤りに自分では気がつかないままでいることだ。それが正しくなかったり、誰かに迷惑をかけたりしているのに、自分ではそのことに気づかず、「正しいこと」だと思ってずっとその行動を続けることだ。

 以前、人が自分自身に対して客観的になることはとても難しいと書いたけれど、「他人から指摘されて初めて気づくこと」というのは自分が思っている以上に多い。

 それは自分の何気ない行動だったり、言葉だったり、仕草だったりするが、他人に指摘されないと自分では永遠に気が付けないことというものが存在する。自分の行動や発言が他者の目にどう写り、どう聞こえるのかは、他者にしか分からないからである。そして、その他者によって客観視された、自分に対する意見というのはとても重要で価値のあるものである。自分の間違いを指摘してくれたり、あるべき姿に導こうとしてくれる存在というのは、本当に貴重なのである。

 私はこの話を何度か友人にしたことがあるのだけど、その際にいつも引き合いに出す例がある。それは「食べ方」、つまり食事のマナーである。

 「食べる」という行為は人間にとってとても日常的な行為なので、無意識なクセや習慣が出やすい。例えばあなたの友人に、ものすごく大きな音を立てて食べる人がいたとする。あなたは彼(彼女)に、「もう少し静かに食べたほうがいいよ。それじゃまるで犬みたいだよ」と言うことが出来るだろうか?
 その友人のしていることは間違いではないかもしれない。あなたの言うことを聞いて気を悪くするかもしれない。(少なくともあまりいい気はしないだろう)しかし、その友人は自分の食べ方のせいでいろんな誤解を受けたり貴重な機会を逸しているかもしれないということに気がついていない。(大切な商談を逃したかもしれないし、意中の人に人知れず逃げられたかもしれない。)

 なぜ、その友人は今の今までそんな食べ方を続けてきたのだろう?それは、誰もそのことを指摘してあげなかったからだ。「あなたの食べ方はお世辞にもきれいとは言えないし、マナーとしてなっていない。だから直すべきだ」と、彼の近くにいる人が誰も言ってあげなかったからだ(もしくは指摘されても彼がその食べ方を頑なに貫き通しているかだ)。

 誰にも、何も指摘されずに大人になってしまうことは、ある意味において不幸なことだと私は思う。だが、相手の間違いを指摘することは、簡単なことではない。相手が自分の大切な人であればあるほどそうだ。なぜなら、そこには必ず「指摘することで相手に嫌われてしまうかもしれない」という恐怖が存在するからだ。だから、自分に至らぬところや未熟なところがあったときに(間違いなくある)、それを臆せずに指摘してくれる存在というのは、得難い存在であり、だからこそ貴重なのだ。

 自分の間違いや誤りをきちんと正してくれるか。
 信頼というのは、肯定や偽善や慣れ合いの上に成り立つものではない。

スポンサード リンク
スポンサード リンク

気に入ったらシェア!

スポンサード リンク
スポンサード リンク

コメント

  1. […] 参照: ・「自分の良さは他人に教えてもらうもの」 ・「自分の誤りを指摘してくれる存在は貴重だ」 […]