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書けるだろうか、とは考えない。書くだろうか、だ。

 私はこのブログで何度も書いている通り、村上龍が大好きだ。
彼の書く小説も、文章も、考え方も、姿勢も、全てから多大な影響を受けている。
以前に爆笑問題とのラジオでの対談の書き起こしを書いたけれど、その中で村上龍が語っていた「書くことは好きではない。好きではないけれど、そこから得られる充実感に勝るものはない」というのも、私がいつも反芻する言葉のひとつだ。

参照:「小説を書くことはいつでも「特別」なこと。爆笑問題×村上龍 日曜サンデー対談より

 そして、「五分後の世界」という作品のあとがきで書かれていた文章は、「書く」ということに対する私の姿勢の土台というか、核のようなものになっている。

この小説の脱稿のリミットは94年2月4日11時AMだった。
前の年の文化の日に、果たして自分は書くだろうか?と考えた。「書けるだろうか?」とは考えない。
「書くだろうか?」だ。「たぶん書くだろう」ということにして、始めた。

私はこの言葉がとても好きで、文章を書くときにいつも思い返し、反芻する。

 「書けるだろうか、ではない。書くだろうか、だ。」と、心の状態を取り敢えずポジティブに設定して、「今までだって書いてきたんだから、今回もきっと書けるはずだ」と自分自身に言い聞かせる。
このような心の状態を保つためには「実際になんとかなってきた経験」が必要とされる。
辛くても何とかなる、と思えるようになるために必要なこと」という記事でも書いたけれど、「何とかなる」という意思を支えるのは過去の経験しかないからである。

 このような身の構え方というか、心の持ちようというのは、何も文章を書くときにだけ役に立つものではなく、人生のあらゆる局面で有効だと思う。

できるだろうか、ではない。やるか、だ。
行けるだろうか、ではない。行くか、だ。
伝わるだろうか、ではない。伝えるか、だ。

 心のどこかで「自分はきっとやるんだろう」と、ハッタリでもいいから思い込むこと。
そういった心持ちで何かに取り組むと、不思議と本当に達成できたりするものである。過程は苦しかったりしんどかったりするのだけど、自分はやるんだ、という前提があるだけで自然と力が湧いてくる。
不可能かもしれない、という不確実性をいったん排除し、きっとめちゃくちゃ大変なんだろうし、どうやったらいいか見当もつかないけれど、それでも自分はきっとやるのだろうと、他人ごとのように何かに取組み、続けていく。
やる前からギャーギャー言わず、取り敢えず始めてみる。

この言葉はいつも私に、挑戦するための意思と力を与えてくれる。

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