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自分の可能性を広げる、手段としての語学力

 以前、カンボジア旅行で感じたことを「カンボジアのカフェで感じた幸福な瞬間」という記事に書いた。
今日はもうひとつ、私がカンボジアに行ったときに考えたことを書いてみたい。

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生きる手段としての外国語

 私が行ったのはシェムリアップという都市で、ご存知の方も多いかもしれないが、アンコール遺跡がある都市である。このシェムリアップを訪れる観光客は、つい最近まで日本人が一番多かったそうだ。
私が行った時はすでに、中国人と韓国人がその大半を占めていたが、いずれにせよ、アジアを始めヨーロッパからの旅行者にも人気の都市である。

 発展途上国の観光地というのはどこでもそうなのかも知れないが、子どもの物売りがとても多かった。子どもといっても、4歳とか5歳とかそれくらいの、本当に小さな子どもである。
そんな子どもたちが、私が歩いていると一斉に集まってきて、ポストカードを$2で買ってくれとせがんでくる。写真を撮っていても、食事をしていてもお構いなしに話しかけてくる。
私が無言でそのまま通り抜けようとすると、1人の男の子が「日本人か?」と聞いてきたので「そうだ」と答えると、「カッコイーネー」と片言の日本語で話してきた。
彼はきっと、韓国人には韓国語の、中国人には中国語の、アメリカ人には英語の「カッコイーネー」的決め台詞を用意しているのだろうと思った。

 日本人なら、幼稚園か小学校に通って、友達と遊んだり勉強したりしているであろう年頃の子どもが、異国からやってきた観光客にポストカードを買ってくれとしつこく付きまとわなければならない、そんな彼の置かれた環境を可愛そうだと思わないでもなかった。だが、私がそんな彼らをみて考えたのは、「自分は何のために語学を勉強するのか?」ということだった。
 
 目の前にいるのは、日本人とはまったく異なるモチベーションと動機で外国語を「習得」しようとする子どもたちだった。彼らは例えば、英語や中国語が話せるからといって褒められるわけでも、賞賛されるわけでもない。
その日、食べるものを得るために、「必要だから」身に付けるのだ。
物売りに限らず、トゥクトゥクのドライバーにしろ屋台のおっちゃんにしろ、自分のお客を獲得するために必死で話しかけてくる。相手に理解される言語と言葉で、自分の利益を最大化しようとする。

 そんな彼らを見ていて私は、日本人が進学や就職、転職やキャリアアップのために英語を勉強したりしているのが、なんだか生ぬるいと感じてしまった。
もちろん、カンボジアの物売りの少年と、就職のためにTOEICの勉強に励む大学生を比較することには無理があるのかもしれない。そもそもの環境や前提が異なるのに、単純に「語学の習得」という切り口だけで比較するのはアンフェアかもしれない。
だが、「何のための語学力なのか」ということを考えるいいきっかけになったことは確かだった。

何のための語学力なのか

 では、私たちは何のために外国語を修得するのだろう。
言うまでもなく、自分の意思と、自らが持つ情報を相手に伝え、コミュニケーションをはかるためである。
周りを海に囲まれた島国である日本では、価値観も、文化も、宗教も言語も異なる他者に対して、権利や利益を主張し、交渉するという機会がこれまでなかったし、今でもそんな機会に日常的に接しているのはごく一部の人達だけだろう。英語やその他の外国語を話せないことで、日常的に「支障」がでる人なんてほとんどいないと思う。

 日本人は、いい意味でも悪い意味でも、「日本語」という壁に守られている。
これだけ「グローバル化」と叫ばれているが、日本を見ていて、いったいどのあたりがグローバルなのか分からないし、日本が目指す「グローバル」がどんなものなのかも分からない。

 異なる言語を修得するということは、今まで接することのなかった人達と触れ合うことができ、今まで解読できなかった情報を入手できるということ。自分の行動範囲が広がるし、視野も広がる。すなわち、自分の可能性を広げるということと同義なのだ。
 私は、語学を修得することの一番の意義というか、醍醐味はこれだと思っている。
語学力とは、資格のように持っているだけで何かの恩恵に預かれるものではなく、自分の選択肢を広げ、新しい可能性を探るためのツールなのだ。
所有することではなく、どう使うのか、が問われるのである。

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