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現状に満足してしまうことが、いちばん忌避すべきこと

 「いま、あなたは自分の人生に満足していますか」と問われたら、なんと答えるだろうか。
「はい、とても満足しています」「それなりに満足しています」「あまり満足していません」「まったく満足していません」どの答えが一番多いだろうか。
 自分の人生に、自信を持って「満足している」と答えられることは素晴らしいことなのだろうか。「満足できないでいるよりも、満足できる方がいいに決まっているじゃないか」と思う人が圧倒的に多いのかも知れない。しかし、私は「何かに満足してしまう」ことに対して、先天的とも言うべき警戒心がある。
 
 いつの頃からか、「今の自分に満足してしまうこと」に対する漠然とした不安と、「変化しなければ」という強迫観念のような焦りを同時に持つようになった。どうしてそのような思いを持つようになったのか、はっきりとしたことは分からない。しかし、心のどこかに「今のままではだめだ」という一貫した自己否定のような感覚が厳然と存在している。
 きっと、何かに満足してしまったら、そこから自分はもう前に進めないんじゃないか、何かを追い求めるということをやめてしまうんじゃないか、すべてが「予定調和」な毎日になってしまうんじゃないかと考えていて、私にとってそれはまさに「恐怖」そのものである。常に何かが欠けていて、何かに飢えている状態というのが、私にとっての「自然な状態」なのだ。
 このブログでも何度も紹介した、村上龍のエッセイ「無趣味のすすめ」の『好きという言葉の罠』という章にこんなことが書かれている。

子どものころから文章を書くことは得意だったが、好きではなかった。
もし自分が小説を書くことが好きだったらどうなっていただろう、と考えることがある。もし好きだったら、たぶん日常的な行為になっていただろう。つまり小説を書くことが自分にとって特別なことではなくなっていただろう。もしかしたら小説を書くことそのものに満足を覚えるようになったかも知れない。
執筆が日常的行為と化すこと、書くことそのものに満足すること、いずれも予定調和に向かう要因となる。わたしにとっては忌避すべきことだ。

 「書くことはいつだって特別なことだ」と村上龍は言う。だから、今自分のやっていることが日常的な行為になり、その行為自体に満足してしまうことは忌避すべきことだ、と。
 自分にとって、ある行為や状況が特別なものではなくなってしまうという経験は、誰にでもあることと思う。他人からの好意や親切でさえ、いつの間にか当たり前に感じている自分がいるし、異常な状態に感覚が麻痺し、それを異常だと感じなくなることだってある。
 
 良くも悪くも、人は慣れてしまう生き物だし、それは「適応している」と言い換えることもできるのかもしれない。しかし、あらゆることが特別ではなくなってしまったとき、果たして人はそこから何かを学びとったり、新しい何かを発見したりするのだろうか。
 
 ここまでこんなことを書いてきて何だけど、私も最終的には、満足のいく生活、満足のいく仕事、満足のいく人生というものを手にしたいと思っている。
 だから、そこには一種のジレンマというか、イタチごっこのような状況が発生することになる。つまり、「満足のいく人生を求めながら、一方で満足すまいと懸命にもがいている」という状態だ。
 「あ、これって意外と悪くないかも」とか「今ってわりと幸せかも」と思った瞬間、「今この瞬間から停滞が始まるぞ」ともう1人の自分が出てくる。こうして書いていると、我ながらなんて面倒くさい性格なんだと思わなくもないが、「何にも満足すまい」という姿勢と、「もっと何かあるはずだ」という希求心はこれからもずっと持ち続けたいと思う。
 
 もしかしたら、何かに満たされてしまう人生よりも、満たされていなくて、だから色んなことをやってみようと試みる人生のほうが、案外楽しいのかもしれない。

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コメント

  1. […] なったら、自分は生きていく意味を失うんじゃないかとすら思っている。    「現状に満足してしまうことが、いちばん忌避すべきこと」という記事でも同じようなことを書いていた。 […]