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多様性を認めるとはどういうことか

 先日、脳科学者の茂木健一郎さん(@kenichiromogi)がTATTOOについて言及した一連のツイートが議論を呼んでいた。茂木さんが主張していたことをざっくり一言で言うと、「TATTOOを入れているという理由で差別することは、ナンセンスで前近代的で時代錯誤で排他的で無意味だ」というものだった。
 これに対し、50万人(!)を超える氏のフォロワーからは、様々な反論や同調する意見が寄せられたようだ。1割が賛同、9割は否定的な意見で、中には罵倒、誹謗中傷に近いものもあり、氏もかなり熱くなって議論に参加していた。

 私は茂木さんの意見に100%賛同するのだけど、やはり未だに、日本ではTATTOOを入れている人に対する偏見は根強いのだなと思った。
 一連のツイートを見ていると、「そういうのを見るだけで不快な気持ちになる人もいる」という意見が多かった。確かに、そういった人は決して少なくない一定数存在するのだろう。
 「刺青、TATTOO」=「暴力団、やくざ」という、日本人が持つ根強いイメージが影響しているのだと思うけれど、実際刺青やTATTOOにはそういった「個人や組織の示威」といった側面もあるので、ある程度は仕方の無いことかもしれない。
 しかし、見ていて不快になるからと、その人が元来有する資格や権利を奪っていいわけではない。「不快になる」という感情は、あくまで主観的で個人的なものに過ぎないのだから、その個人的な感情で他者を縛ることは許されない。
 
 この茂木さんのツイート内容は、Twitterに限らず様々なSNSやWEBメディアでも反響があったようだが、Facebookで見かけたある投稿に私は非常に違和感を感じた。それは茂木さんの主張に異議を唱えるもので、こういった趣旨のものだった。
 「人種や性別、障害、容姿など、生来の差異によって差別を受けることは許されない。だが、自ら『他人との差異』を選んでおいて、都合の良い時だけ「差別だ」なんて言うんじゃない
 
 これは一見筋の通った意見のように見えるのだけど、言っていることは「差別されたくなければ皆と同じでいろ」ということである。こういう人は、生来的な差異による差別は許されないが、故意に選んだ差異による差別は「仕方のないこと」と考えているのだろうか?
 
 日本人はよく、「同一性、協調を重んじる民族だ」と称されるが、これは裏を返せば異物や異端を認めない、とても閉鎖的で排他的な民族であるということでもある。単一民族で、周りを海に囲まれ、日本語だけ話せれば事足りて、移民を受け入れているわけでもない国なのだから、仕方がないと言えばそれまでなのかもしれないが、「未だに」そういった考え方の人が多いという現実に時々辟易とさせられる。
 
 果たして、多様性を認めること、多様性のある社会とはどういったものなのだろうか。
私は、「個人の意思や欲求に伴い選択された他人との差異」を認める社会こそが、「多様性のある社会」なのだと思う。自ら選び取った、他人とは違う個人を受け入れてくれる社会こそが、目指すべき社会だと。
 「人種や性別、障害、容姿など、生来の差異」による差別を受けない社会など、「多様性のある社会」なんて呼ばない。そんなものは当たり前の話で、「多様性」という表現さえ間違っている。
 
 皆と同じでいることを強要されない、他人と違うことがが当たり前のこととして、明白なコンセンサスとして存在することこそが、本当に「多様性を認める」ということなのだと思う。

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