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とおくはなれてそばにいて

 自分の頭のなかにあるものや、感じていることを言葉に変換することは、時にとても難しい。「空は青い」とか「今日は雨だ」とか「仕事帰りにコンビニに寄った」とか、明白な事実を説明するだけなら簡単だ。しかし、世の中はそう簡単に説明できるものばかりではない。特に、人の感情や想いといった曖昧なものほど、言葉にして伝えることが困難になる。
 
 「とおくはなれてそばにいて」とは、村上龍が2003年に発表した短篇集のタイトルである。氏の作品の中では珍しく恋愛小説ばかりを扱ったものだ。描きおろし作品ではなく、それまでに発表した作品を集めて再編したものである。このタイトルについて、村上龍はまえがきにこのように書いている。

自由に対して不安を持つ人は、好きになった人に対しても矛盾した感情を持つことになる。本当はずっとそばにいて欲しいが、やがて息苦しく不安になり、遠くに離れていて欲しいと思ったりする。そういった独特の感情を、この短編選集のタイトルにした。_まえがきより

 村上龍に限らず村上春樹もそうなのだけど、どうしてこんな風に人の感情を的確に描写できるのだろうと思う。自分の中に確実に存在していて、その存在をはっきりと認識している、でもどうやっても言葉にして表現することが出来ない。そんな「存在はしているが、表現されていないもの」を、彼らは的確に捉え、しかるべき形を与え、表現する。
 そんな能力を持ったごく一部の人達によってようやく言葉となった「何か」に私たちは「出会う」。イメージや感覚といった、曖昧でモヤモヤした「状態」でしかなかったのものが、はっきりとした言葉になって眼前に現れる。
 
 そして、「自分はこれを知っている」とはっきり認識する。今目の前にあるのは、自分がずっと考え、感じ続けてきたことだ、と。そういった「出会い」というのは、大げさな表現ではなく「衝撃的」なもので「感動的」なものである。「そうだ、これだ。」と、霞がかった視界が晴れていくように、目の前がクリアになる。
 
 そんな風に、「どうしてこの人は自分の感じていることを知っているのだろう」と思わせることが、小説家の能力であり、仕事のひとつであるのだと私は思う。
 私が小説を読むことが好きな理由はいくつかあるが、この「代弁された言葉との出会い」も大きな理由のひとつである。言葉と出会うということは、本当にわくわくする、感動的な出来事なのだ。
 
 だからこのブログでも、そんな「言葉との出会い」を提供できたらなと思う。読んでいてハッとするような、そんな体験をしてもらえたら、書き手としてこれに勝る喜びはない。

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コメント

  1. […]  「とおくはなれてそばにいて」という記事で私は「代弁された言葉との出会い」と表現したが、そのような言葉との出会いは、その人にとって非常にインパクトのあるものなのだ。 […]