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ずっと、「何かが足りない」と思って生きてきた

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 ずっと、自分には何かが欠けていると思っていた。何かが決定的に不足していて、常に満たされない思いでいっぱいだった。だけど、自分には一体「何が」欠けているのか、どうすればその空白が埋まるのか、いつまで経っても分からなかった。

 そして未だに、自分は満たされていない、と思う。今まで一瞬、一時でも満たされたことがあっただろうか?と考える。たぶん無かったと思う。
 楽しい時間や興奮する瞬間、わくわくする体験や幸福な日々は確かに存在したけれど、それらによってもたらされる充実感は、それらによって満たされるべきものしか満たしてはくれなかった。言い換えれば、「何によっても満たされない空白」のようなものが、自分の中にはっきりと存在している。

 もともと手にしていたものを失う「喪失感」ではなく、始めから何も無いことへの「空虚感」。それはときに「無力感」へ変わったり、「怒り」へ変わったりした。そういう空虚感や無力感に耐えられなくなったとき、私はしばしば極端な行動に出ることがある。
 いちばん分かりやすい例が、海外へ出るということだが、他にも衝動買いしたり、お酒に走ったり、気が狂ったように本を読んだりした。そうすることで、何かを確かめたかったのだと思う。しかしどこへ行っても、何をしても、その無力感が消えることは無かった。その「不在」の「存在」をはっきりと感じることができた。

 でも、と私は思う。私はきっとどこかで、その空白が満たされることを恐れているのだ。自分は何事にも満たされたことが無いなんて言いながら、その何かが満たされてしまうことを究極的に恐れている。そんなことになったら、自分は生きていく意味を失うんじゃないかとすら思っている。
 
 「現状に満足してしまうことが、いちばん忌避すべきこと」というエントリーでも同じようなことを書いていた。

きっと、何かに満足してしまったら、そこから自分はもう前に進めないんじゃないか、何かを追い求めるということをやめてしまうんじゃないか、すべてが「予定調和」な毎日になってしまうんじゃないかと考えていて、私にとってそれはまさに「恐怖」そのものである。

 今でもこの考え方というか、感じ方は変わっていない。

何かが欲しい、という思いをキープするのは、その何かが今の自分にはないという無力感をキープすることで、それはとても難しい。

 これは村上龍の言葉だ。私は無力感をキープすることが難しいとは思わないが、決して心地良いものでないことは確かだ。
 ただ、空虚感や無力感が、何かを始めたり、何か行動を起こすための原動力となることがある。何によって埋められるのか分からないのだから、その何かに出会うまでは探し続けなければならない。
 何かに飢えなければ、何にも出会えない。

 私はずっと、「自分には何かが足りない」と思って生きてきた。そしてこれからも、「何かが足りない」と思って生きていくのだと思う。

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コメント

  1. […] と言われていて、以前こんな記事を書いた私としては、とても考えさせられるものがあった。 […]