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言葉をつくるひと、言葉に出会うひと。

laugh-raku」というブログを運営されているタクスズキさん(@TwinTKchan)が書かれていたこちらの記事を読んで。

リンク:「「あー、俺も同じこと思ってた」という言葉が嫌い

 この記事でスズキさんは、「言語化のフリーライダーに最初は憤りを感じていたけれど、それはすなわち自分の言葉が相手に届いているという証拠であり、素晴らしいことなのだと気付いた」という趣旨のことを書かれている。
 私も、彼の言っていることには共感できるし、「考えをわかりやすく文章化する事は難しい」というのは本当にその通りだと思う。
 ただ、私はこのことについて少し違った感覚を持っているので、そのことを今日は「文章化」してみたい。

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曖昧な概念や、抽象的な思いほど、言語化するのは難しい

 「自明の理」という言葉がある。これは「あれこれ説明する必要のない明白な道理。それ自身で明らかな論理。(デジタル大辞泉)」という意味の言葉だ。

 このような、誰でも知っているような事実や道理を言語化するのは簡単だ。なぜなら、それは既に周知され、一般化されているものごとなのだから、正しい言葉と、正しい文法を使って書けばそれで済む。「地球は自転している」という事実を言語化することに苦労する人はいないだろう。それはただ単に事実をなぞった文章を書けばいいだけだ。

 しかし、世の中には「自明の理」とは呼べぬ、曖昧な概念や抽象的な思い、不確かな感覚のようなものがたくさんある。「こんな風に思うのは、ひょっとしたら自分だけなのではないか」と不安を感じるほど、個人的で局地的な考えもある。

 そういったものを言語化するのは、本当に難しいことだ。本当に難しいことだからこそ、言語化されたその言葉に出った人は、ある種の安心感を得るのだと思う。
 身体の調子が悪い時に、原因が分からないでいるよりも、医者からその原因と病名をはっきり告げられる方が安心するのと似ているかもしれない。

 「とおくはなれてそばにいて」という記事で私は「代弁された言葉との出会い」と表現したが、そのような言葉との出会いは、その人にとって非常にインパクトのあるものなのだ。

世の中には2種類の人がいる

 スズキさんの記事にある、「あー、俺も同じこと思ってた」という人は、実は「同じことを思っていた」のではなく、「思っていたことを見事に表現された文章に出会い、自分の考えを認識できた」ということなのだ。

 このように、曖昧な何かに言葉を与え文章化するということは、誰にでも出来ることではない。そして、「あー、それ私も同じこと思ってました」という人がいるということこそが、その「誰にでも出来ることではないこと」を達成した何よりの証なのだ

 言葉をつくるひとと、言葉に出会うひと。
 世の中には2種類の人間がいて、その両方が必要なのだと思う。どちらか一方だけでは、お互いに確認のしようがない。

 願わくば私は、自分がその両方でありたいと思う。

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