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自分の中に「問い」を持ち続けること

 自分はいったいどうしたいんだろう、何になりたいんだろう、どこに行きたいんだろう。誰でも一度は自分に向かって投げかけたことのある問いだと思う。
 その問いに対し、はっきりとした答えを持っている人もいれば、考えれば考える程に混乱してしまうような人もいるだろう。そもそも、そんな問いかけに意味など無いと考える人もいるかもしれない。

 あなたはどうしたいのですか、何になりたいのですか、どこに行きたいのですか。誰か、他人に向かって投げかける問いであれば悩むことなんてない。その問いに対し、答えるのはその誰かであって、自分ではないのだから。

 自分に対して何かを問いかけるということは、「問う」人と「問われる」人が同じ人間だということ。「問う」人と「問われる」人が同じ人間だということは、その答えを返す相手もまた、自分自身だということ。

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その「問い」の立て方はあってる?

 例えば、「自分が本当にやりたいことは何だろう」という、ありふれた問いかけがある。私自身も、今まで数え切れないくらい、自分に対してこの問いを投げかけてきた。その結果、どうだったか?
 特に答えなんて出なかった。「答えらしきもの」に辿り着いたこともあったにはあったのだけど、その答えは時が経つにつれ、別の「問い」へと形を変えた。

 このように、「いくら考えても答えの出ない問い」に対する別のアプローチには、2つある。
 1つは、その問いに対する答えを自分は最初から持っていないのだと受け入れる。つまり、答えを求めることをやめるということ。もう1つは、そもそもその問いの立て方が間違っているので、別の「問い」に置き換えるということ。

 この2つ目の、「問いの立て方を変える」というのは、実はとても有効な方法だと思う。例えば、先の「自分が本当にやりたいことは何か」というのを、こう置き換えてみる。
 「自分が、絶対にやりたくないことは何だろう」。この問いになら、いくつか答えが出せそうだと思わないだろうか?
 「早起きはしたくない」「満員電車には乗りたくない」「スーツは着たくない」など、やりたいことは特に無いけれど、やりたくないことは割とある、という人は、そのやりたくないことさえ回避できれば、それなりに満足できるのだと思う。

 自分の好きなことが分からなければ、「自分が得意なことは何だろう」と置き換えてみる。すると、「自分はこういうことなら苦もなくやり続けることができるな」というものを発見できるかもしれない。その何かを、好きでいる必要なんて無い。得意なことをやれることは、ある意味で好きなことをやることよりも素晴らしいことだと思う。
 それは自分の能力をきちんと有効活用できているという証なのだから。

 こんな風に、「問い」の形をいろいろと変えてみることで、思ってもいなかった答えに出会うことがある。何かひとつの問いに対し、徹底的に深く考え続ける。そのプロセスももちろん大事だとは思うけれど、やっぱり「答え」って出してなんぼのものだと思う。
 「答え」はひとつの「結果」なのだから、出すことに意味がある。

問い続けることの大切さ

 何かを問うということは、何かに疑問を持つということでもある。何かに疑問を持つということは、何かを疑ってみるということだ。
 世の常識を疑う、なんて大それたものじゃなくてもいい。
 ふと立ち止まって、「この目の前の光景は何を意味するのか」とか「自分はいったい何を恐れているのか」とか、もっと個人的なものでいいから、「常に問い続けること」が大切だと思う。

 異常な状態がずっと続くと、人はそれを異常だと感じることすら出来なくなってしまう。感覚が麻痺してしまうのだ。

「もしかしたら、もっと他に何かあるのかもしれない。」
「自分は、ものすごく狭くて暗い部分しか見れていないのかも知れない」
「やってみたら意外と大したこと無いのかもしれない」

 有効な問いとは、人生に亀裂を与え、その人の行動を変えることが出来る。

 自分の中に「問い」を持ち続けよう。自分自身に問い続けよう。
 きっと狭い世界しか見れていない自分を、疑い続けよう。

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