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誰かに、何かをしてあげられる存在になりたい

 前回のエントリー、「いや、上京するの面倒くさいし地元の方が楽だよね。ジモラクのすすめ」の最後で少し触れたこちらの本を読み終えた。

評価と贈与の経済学

 内田樹さんと岡田斗司夫さんという、何ともおもしろそうな組み合わせの対談本だ。まえがきで、岡田さんが以下のように書かれている。

この本は対談本というテイを取っていますが、実際は「内田樹ファンの岡田斗司夫が、内田さんに直に話を聞く機会を得て大はしゃぎで色んなことを聞く」という内容になっています。
〜中略〜
しかし、そんな二人が対談したら驚きました。見えている未来がほぼ同じなのです。
これからは人柄が大事。
人の世話をする人が得をするし、幸せになれる。
お金をいくらもらったか、いくら使ったかではなく、人に何ができたのか、何をしてもらったのか、で測られる。
〜中略〜
こんな内田さんと僕が、
①現状はこうだよね
②もともと、こうだったよね
③未来はこうあるべきだよね
④だから、未来はこうなるよ
の四つの視点のうち、④のみがほぼ完全に一致。残りの①〜③が徹底的に違ったり微妙に似通ったりしています。
この差異を楽しんだり、どっちかの意見に肩入れしたり、読みながら反論したりできるのが、本書の楽しみ方です。

 本書のタイトルにもあるように、「贈与」というキーワードについて語られるお二人の考え方がとても印象に残った。今日は、本書を読んで考えたことと、最近感じていることを絡めて書いてみたい。

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贈与とは、他人にパスを出すこと

 最近、身近な人の不幸(という表現以外に思いつかない)に直面することが連続してあり、そういうときに強く感じたことがある。それは、「自分の大切な人や身近な人が苦しんだり困ったりしているときに、自分には何もしてあげられることがない」という事実は、人をとことん落ち込ませるんだということ。それが、私がこの本を読んで「贈与」という言葉と概念に、必要以上に反応してしまった理由でもある。

 贈与、つまり、他人に何かを与えること。これは何も上から目線の考え方ではなくて、自分を起点にしてパスを出すことだ、と内田さんは書かれている。

人間は強いものに導かれて強くなるんじゃなくて、弱いものをかばうことでしか強くなれない。

生きる根拠がないと悩んでいる人たちは、他人に生きる根拠を与えることでしか、その悩みは解消されない。

もちろん、軌道に乗せてあげるためのパスはまずこちらから出さないといけないんです。
なんの根拠もなしに贈与を受けたという事実がその人の反対給付義務を形成するわけですから。「オレは誰からもなにも恩恵を受けていない」と思っている人が、自分を起点にパスを出すということはありえない。

贈与する側に立って初めて贈与の意味がわかるからね。

 これに対し、岡田さんも以下のように同調されている。

なんでかって言うと、人間は誰かに贈与するっていうシチュエーションに遭遇しないと、自分が実は「持っている側」、つまり贈与を受けている側だっていう、へりくだった自覚をすることが不可能だから。

 「へりくだった自覚」という岡田さんの表現がうまい。この「へりくだった自覚」を持つことができないと、謙虚であることもできない。

これからの日本を担っていくことになる若い世代に対して、先行世代に課せられた使命は「敬意を持って、出来る限り親切にする」ことなんですよ。親切って、使ったら目減りするっていうものじゃないから。親切にすれなするほど、親切の総量は増えていく。

これは資本主義における花柄のやり取りとはまったく違うモデルですから、「これだけのサービスを君にしたから、それの代価分のサービスを返してくれ」という等価交換モデルで考えている人には理解できない。
自分が何か価値のあるものを持っていたり、他の人には出来ない何かができたりするのは、すでに贈与を受けているからだと思えたときに初めて「パスをつなぐ」ということの意味がわかる。

誰かに、何かをしてあげられる「存在」

「誰かに何かをしてあげたい、何かをしてあげることができる存在になりたいという思いが、どれだけ普遍的で切実なものなのかをこれから日本人は思い知るようになると思う。」

 これは、村上龍が「希望の国のエクソダス」という作品の中で書いた文章だ。私はこの文章がものすごく好きで、このエントリーを書こうと決めた時にも真っ先に頭に浮かんだ。

 「どれだけ普遍的で切実なものなのか」と村上龍が書いている通り、「誰かに何かをしてあげたい」という欲求は、誰もが多かれ少なかれ持ち合わせているものなんだと思う。でも、その欲求を「持っていること」と、実際に何かを「してあげられる」こととの間には、大きな隔たりがある。
 先にも書いたとおり、「何かしてあげたいけれど、してあげられることが何もない」という状況が一番辛くて、だからこそ「してあげられる『存在』」になりたいと強く思うようになった。

 それは物理的に何かを与えるということではなく(もちろんそれも素晴らしいと思うけれど)、かけてあげる言葉とか、文章を書くとか、何か間接的なことでいいから少しでもその人の幸福や喜びに関与すること。自分の大切な人や、身近な人にとって、そんな「存在」でありたいなと。

以下は、内田さんの言葉。

「自分には余剰がないから誰にも贈与することができない。そのうちお金持ちになったり、出世したりして、余裕ができたら、贈与について考えてもよい」というふうに考えている人には贈与のサイクルに参入するチャンスは永遠にめぐってこない。〜中略〜
個人資産が百億ドルあっても、「まだ足りない。贈与なんかしている余裕はない」と思っている人間だっていますし、「自分は貧しいけれど、もっと困っている人もいるから、その人になにかしてあげよう」と思う人もいる。
だから、客観的条件じゃなくて、主観的な決断の問題なんです。

自分が他人からなにをしてもらえるかより先に、自分が他人に何をしてあげられるかを考える人間だけが贈与のサイクルに参入できる。それはその人の貧富とか社会的地位の高低とはまったく関係がないことなんです。
「まずはオレの努力と才能にふさわしい報酬をよこせ、話はそこからだ。」という人には永遠に贈与のロジックはわからない。

 誰かに、何かをしてあげられる存在になりたい。今、強くそう思う。

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