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走ることについて書かれた文章と、走ることから得られるもの

 走ることについて、「健全な肉体に宿る不健全な魂」というエントリを書いたことがある。
 まがいなりにではあるけれど、ランニングは今も継続できている。去年の10月から始めたから、今年(2014年)の10月でちょうど1年になる。

 先日、ランニングを始めてから初めての10kmランに挑戦した。友人に誘われて一緒に走ったのだけど、率直な感想は「意外といける」というものだった。5km走るのとほとんど変わらないペースで走り切ることが出来た。でも、走りきった後の達成感や疲労度は、5km走ったときのそれとは全く異なっていた。10km走り終えた後に感じたことは、「何かしらのラインを越えた」という静かな達成感で、それは自分に少なからぬ良き影響を与えたことは間違いない。

 余談だけど、友人に「一緒に走ろう」と言われたとき、「誰かと一緒に走ること」の意味が私には分からなかった。というのも、私が数あるスポーツやエクササイズの中から「走ること」を選んだのは、それが「ひとりでできること」だったからだ。自分の好きなときに、好きな場所で、好きな音楽を聞きながら走る。それこそが、私が走ることを選んだ理由であり、誰かと一緒に走るというのは、誰かと一緒にものを書くということと同じくらい、不自然なことに思えたのだ。

 けれども、実際に誰かと一緒に走ってみて、これはこれで悪くないなと思うようになった。誰かと一緒に走ることで、少なからぬ競争心が芽生え、タイムの向上につながるし、たまに世間話のような会話を交わしながら走るのもそれはそれで楽しかった。誰かと一緒に走ったのは初めて10kmに挑戦したときの一回きりだが、機会があればまたやってみたいなと思う。走り終えた後、一緒にビールを飲みに行くなんていうのも楽しそうだ。

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走ることについて書かれた文章

 さて、「走ることについて書かれた文章」で、おそらくもっとも有名なのは村上春樹のこの作品だろう。

 このエッセイは、村上春樹にとって「走ること」とはどういうことなのか、彼なりの哲学として書かれている。彼にとって走ることとは、「書くこと」と切っても切れない、表裏一体なものなのだ。
 走ることと書くことは、どのような点において似ていて、走ることが書くことにどのような作用を及ぼすのか。毎年一回はフルマラソンに出場し、100kmマラソンも完走したことのある、まぎれもない”ランナー”としての村上春樹が語る「走ること」。

 私はランニングを始めてから本書を読んだのだが、純粋に「自分も走り続けよう」と思うことができた。前書きにも書かれているが、これは「どのようにすれば早く走れるのか」とか、「走るためのノウハウ」が書かれているものではない。あくまで、村上春樹にとって「走ること」がどのようなものであるのかが書かれた、いわば個人的な文章である。しかし、そこにはあまりにも多くの示唆や哲学が詰まっており、走ることや、村上春樹に興味のない方でも楽しめる内容ではないかと思う。

これは走ることについての本ではあるけれど、健康法についての本ではない。
僕はここで「さあ、みんなで毎日走って健康になりましょう」というような主張を繰り広げているわけではない。
あくまで僕という人間にとって走り続けるというのがどのようなことであったか、それについて思いを巡らしたり、あるいは自問自答しているだけだ。_前書きより

 もうひとつ、村上春樹とは別に、走ることについて書かれた文章を紹介したい。
 それは、慎 泰俊さんという方が書かれた文章で、今はnoteで公開されているものだ。慎さんの詳しい経歴についてはこちらのページを参照してもらいたい。

 以前はTumblrの「THE MINIMALIST PROGRAM」というブログ上で書かれていたのだけど、最近はnoteへ移行されたようだ。そんな慎さんのnoteはこちらから。

 この人は何がすごいって、もう走る距離が半端ない。後述するエントリーを読んで頂ければ分かると思うが、48時間で208km走るとか、毎日100km近い距離を走り続けて本州を縦断するとか、もはや人間業ではないことをされている。そのときのことを「走ることについて」というエントリーに纏められている。このエントリーは17回に分けて書かれているのだが、是非すべて読んでみてほしい。おおげさな表現ではなく、私は読んで感動した。

 特に気に入った箇所をいくつか引用したい。

自分の行動すらを改めるほどの何かに対する理解を得るためには、それが「身につまされる」ものである必要がある。すなわち、体験をベースにした学びが無くしては、人は自分の行動を変えることはできない。

自分の罪を知らない人だけが善人面して他人を裁きたがる。僕の美徳がもしあるとすれば、素直に自分のダメ人間ぷりをきちんと認識しているところだと思う。

ミニマリズムは、僕が憧れる文体でもあり、生き方でもある。必要なものを、必要なだけ。日が経つ毎に、僕の周りからは本以外のモノが減っているのだけど、それは間違いなくウルトラマラソンの影響を受けたものでもあると思う。

こういう、終わりが見えない忍耐をしているかのように感じて、どうしても気持ちが落ち込んでくるときにやるべきことは、ゴールを細かく設定して、足を前に踏み出すことなのだと思う。

 この人の文体が個人的にどストライクで、自分にとってのひとつのロールモデルとしている。慎さんは書籍もいくつか出版されていて、今読んでいるのは『正しい判断は、最初の3秒で決まる』という本。こちらも読み終えたらまた紹介したいと思う。

走ることから得られるもの

 このように、人が「走ること」について書いた文章を読んでいると、程度の差こそあれ、それぞれに信念や哲学を持って取り組んでいるんだなということが分かる。翻って、自分にとっての「走ること」とはどのようなものなのかを考えてみたい。

 私は、走ることが好きか?と聞かれると、たぶんあまり好きではない。夏は汗まみれになるし、冬は鼻水が垂れて耳が千切れそうになる。同じように、文章を書くことが好きか?と聞かれても、答えは同じで、特に好きというものではない。ではなぜやるのか、続けるのかと言うと、村上龍の受け売りになってしまうが、「そこからしか得ることの出来ない充実感や達成感があるから」ということになる。そして、その充実感や達成感というものが、他のものごとから得られるそれと比べてはるかに大きいから、ということ。

 もうひとつ、走ることから得られるものというのは、「自ら目標を設定し、それを達成しようと試みる意志力」のようなものだ。具体的に言うと、「今日は何km走ろう」とか、「今週は毎日走ろう」とか、そういう具体的な目標を設定し、それを実行に移す力のこと。走ることは、身体的な行動なので(誰も頭の中だけで走らない)、一旦走り出したら走り切るしかない。走ることを途中で止めるということは、文字通り足を止めてしまうことだ。その身体的中断は、「挫折」や「放棄」という事実を脳ではなく身体レベルで突きつけてくる。だから、一旦目標を設定し、それに着手したのなら最後までやり通さなければならない。走ることが私に与えてくれるものは、そういった「何かをやり遂げる力」なのだ。

 そうして得られたものが、日々の実生活の中にどのように活かされているのかというと、実のところよく分からない。けれども、走り出す前の自分と、走り終わった後の自分は、明らかに違う人間になっている気がする。そのような小さな変化を繰り返すことが大切なのだ。結局のところ、私たちは少しづつしか変わっていくことはできないのだから。

 『走ることについて語るときに僕の語ること』の中で村上春樹が、墓碑銘に刻みたい言葉としてこう書いていた。

少なくとも最後まで歩かなかった

 私も走っている最中にときおり、この言葉を思い出す。
 きっと私は、自分では気付いていないけれど、「走ること」からもっとたくさんのことを学んでいるのだと思う。

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コメント

  1. […] という小説家が、「どんな髭剃りにも哲学がある」と書いたそうだ。(これは先日紹介した村上春樹のエッセイで知った)  この言葉を借りるなら、「どんなパッキングにも哲学がある」 […]