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日本は老人ばかり?自分の居る場所を客観的に見ることの重要さ

 先日、仕事の出張で神戸へ行ってきた。私は主に、海外への輸出業務を担当しているので、ごくたまに港湾地区への出張があるのだ。

参照:「10カ国以上の外国人と仕事をして感じた、一緒に仕事がやりやすい人種

 その日は、フィリピンの関連会社へ出向されていて、一時帰国中の日本人社員の方も一緒だった。ここではその方をT部長と呼ぶことにする。 
 そのT部長が神戸へ向かう車の中でぽつりと呟いた言葉。

久しぶりに帰ってくると、この国はほんとに老人ばかりだなと思うよ

 きっと、特に深い意味はなく、何となく口にしただけなのだろうけど、私にはその言葉がとても印象的というか、考えさせられるものだった。

 日本は、超高齢社会である。
 総人口に占める65歳以上の人口の割合(高齢化率)が、7-14%であれば「高齢化社会」、14-21%であれば「高齢社会」、21%を超えれば「超高齢社会」と呼ぶそうだが、日本は2007年に高齢化率が21%を超え、超高齢社会に突入した。

 内閣府が発表している「高齢社会白書」の最新版(平成25年版)によると、高齢化率は24.1%まで上昇しているそうだ。もちろん、これは世界で最も高い高齢化率だ。

リンク1:「平成25年版 高齢社会白書(全体版)_内閣府
リンク2:「世界50ヵ国と日本の高齢化率をデータで比較

 だが私は、その「超高齢社会」というものをリアルな現実として実感できているかというと、自信がない。「超高齢社会」「少子高齢化」という言葉を頻繁に目にしたり耳にする割には、それを「自分ごと」として受け止められていないのだ。
 「そうか、日本は超高齢社会なのか」と、頭で理解したところでそのことに危機感を持てるわけではないし、持ったところでどうにかできるわけでもない。ただ、「異常なことを、異常なことだと思わなくなる」ということに対しては強い危機感を抱くことはできる。

 異常なことを異常なことだと思わなくなる原因として、どんなことが考えられるだろうか。それは簡単に言ってしまえば、「慣れてしまうこと」だと思う。異常なことがあまりにも頻繁に、日常的に発生するために、その「異常」に対してのアンテナが鈍り、いつしかそれが「通常」のように感じられてしまうのだ。

 村上龍が中学生の集団不登校をテーマに書いた「希望の国のエクソダス」という作品に、印象的なフレーズが登場する。

「今回の集団不登校ですが、やはり異常なことだと思われますか?」
「〜中略〜…集団不登校という事態が半年も続いているのにそれが何となく当たり前のことになってしまっていることのほうが異常だと思います。」

(余談だけど、こういう「たしかあの作品で、こんなフレーズがあったな…」というときに電子書籍の検索機能はほんとうに便利。紙の本だとこうはいかない)

「久しぶりに帰ってくると、この国はほんとに老人ばかりだなと思うよ」

 私がT部長のこの言葉にハッとしたのは、そういった「異常さに麻痺している自分」を感じたからだと思う。

俺が普段フィリピンで一緒に仕事をするのって、それこそ20歳そこそこの若い子たちばかりだから、久しぶりに帰ってくると余計にそう思うんだよ」とT部長は仰っていた。

 そのT部長にあって、自分には無かったもの。それは、外部の視点。

 この外部の視点というのは、自分が今居る環境や状況を客観的に見るために必要不可欠なものだけど、内部に居ながら外部の視点を持つ、というのは難しいことでもある。外部の視点を持つためには、物理的に外部へ出て、外部に触れる必要がある。

 それは何も、海外へ出るとか転職するとか大きなことでなくてもいい。今居る場所から少しだけ離れてみて、自分がもと居た場所を俯瞰的に眺めてみる。そうやって自分や自分の環境を客観的に見てみると、自分が異常な状態にあることや、反対に恵まれた環境にいることに気付けるかもしれない。日本を離れて日本の良さに気付くこともあれば、日本の異常さに気付くこともあるように。

 いかにして外部の視点を獲得し、内外から自分を見ることができるかというのが大切で、そのためにまず必要なのは、「外に出よう」という姿勢なのだと思う。

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