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ここは日本で、私たちは日本人だけど、そのことに迎合する必要はまったく無い

 私は10代の終わりから20代の初めを海外で過ごした。自分の中になんら確固たる価値観も、経験則も、展望もないままなまじ海外に出たものだから、あらゆるものから刺激を受け、あらゆるものから影響を受けた。よく言えば”世界が広がった”し、悪く言えば”感化された”。

 周りにいた人たちが強烈過ぎて「自分の普通さ」を痛感することになったが、「何者でもない自分」という存在を認められずにいた自分にとって、「まあ、自分は自分でいいか」という肯定感を持つことのできた、貴重な経験だった。滞在していたのが、移民の多いオーストラリアのメルボルンだったことも影響しているのだろう。

 そんな自身の経験もあり、私はよく海外を引合いに出し日本について話すことがある。「日本ではこうだけど、例えばオーストラリアではこうだった」とか「日本のこういった習慣は世界的にはまれで、世界の多くの国ではこうだ」とか。決して、日本がダメで、他の国(例えば欧米)が素晴らしい、ということが言いたいわけではなく、単なる事実として、比較事例として引合いに出すのだけれど、そういうことを話すと決まってこう返す人がいる。

いやでもさ、ここは日本なんだから

 そう言われるたびに、私はものすごい違和感を感じていたのだけど、自分がなぜ、どういう風に違和感を感じるのかを今日は書いてみたい。

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日本人の価値観に迎合すること

 別にここが日本でも、自分が日本人であっても、色んな考え方があり、その多様な考え方が許容される社会のほうがいいに決まっているじゃないか、と私は考えてしまう。例えば先日はハゲについての話になったのだけど、そこにいた友人が「ヨーロッパにはハゲがセクシーだとされる国があるらしい」と言った。ハゲがセクシー、素晴らしいじゃないかと思った。彼いわく、ハゲていることがこんなに後ろめたいことのようにされる国も珍しいと。

 そこで例のごとく、「いや、そんなこと言ってもここは日本だから」となる。いや、確かにここは日本なんだけど、ハゲがセクシーだという価値観が存在して、その価値観を共有する人たちが少なからずいて、その価値観が広がっていけば「常識」というのはあっという間に変わってしまう。「日本だから」「日本人だから」という理由だけで何かを諦めたり拒絶したりするのは、何だかとても受け身な考え方で、思考停止に陥っている。日本人であることに誇りを持ちながら、同時に日本人であることを”諦めている”みたいな。

 ここは”日本だから”、必要最低限のルールを守るというのと、多様な考え方や価値観を持つというのはまったく別の話だ。異常な働き方で、自殺者を毎年何万人も出す国の人たちが、「いやでも、ここは日本だから仕方ないよね」「それが日本人だよね」と考えていては、何も変わることはない。だからこそ、今自分たちが共有している価値観は、もしかしたらものすごく一方的で、閉鎖的で、画一的かもしれないということに気付くために、「外部との比較」が重要になるのだ。

 繰り返しになるけれど、日本だから、日本人だから「こういう考え方や価値観を持たなければならない」なんてことはまったくない。そんな「でなければならない」空気で満たされた社会なんて息苦しくて仕方がない。これは、「ルールを守る」というのはまったく別の話。

外部を知ることの大切さ

 そういった考え方を持つという意味でも、若いときに海外に出れたというのは良かったなと思う。人は、自分が知っている範囲、見える範囲の中でしか物事を考えることはできない。だから、外部を知ることというのは、自分を「拡張」することにつながる。自分はこんなことで悩んでいたけれど、日本を出てみるとそんなことはまったく問題にされないことに気が付いた、ということだって大いに起こりうる。日本や日本人の感覚、価値観で測れば「異常」かもしれないけれど、一歩外に出てみるといかに自分が「普通」か思い知ることになる。

 だから皆さん、海外に出ましょうということではない。ただ、世界には色んな価値観や考え方があるのだから、いいものは取入れ、認め合える社会になればなとは思う。ここは日本で、私たちは日本人だけど、そのことに縛られてはいけない。

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