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どんな小さなことにも、きちんとお礼が言える人でありたい

 最近、特に仕事をしているときによく思うのだけれど、どんなささいで小さなことに対してもお礼が言える人って、それだけで尊敬に値する。

 というのも、自分で何か頼みごとをしておいてお礼の一言も無いっていう人が意外に多い。僕からしたら、そんなことはちょっと考えられないのだけど、あれはいったいどういう心境なのだろうか。もしかしたら僕の会社、または僕の周りにそういった人が多いだけなのかもしれないが、そういう場面に出くわすと思わず首をかしげてしまう。

 相手の一方的な好意だけならまだしも(それでも言うべきだとは思うけど)、何かお願いをしているのは自分の方なのに、あたかもその好意が当然であるかのごとく振る舞うのは傲慢以外のなにものでもない。本人にとっては、もしかしたら「してもらって当たり前」みたいな驕りがあるのかもしれない(それはどこからやってくるのか想像もつかないが)。

 少なくとも「自分から」何かをお願いしたのであれば、たとえそれがどんな小さなことであってもきちんとお礼は言うべきだと思う。たとえペン一本借りるだけでも、PCの操作を聞くだけでも、何か資料を送ってもらうだけでも、きちんと謝意は伝えるべきだ。

 他人の好意を「当たり前」だなんて思ってはいけない。繰り返しになるが、それは「傲慢」以外のなにものでもない。

 好意の大小によってお礼を言ったり言わなかったりするのも、誠実な態度とは言えない。それは、犠牲の大きさで相手の忠誠心を計るようなもので、対等な関係性とは呼べない。

 正直に言って、もし僕がそういった場面に出くわしたら、その相手への評価はひと目盛りかふた目盛り下落することになる。「自分から頼み事をしておいて、お礼の一言も無いのか」と。そういう僕のことを、「器の小さい男だな」と思う人もいるかも知れない。実際、僕の器なんてたかが知れている。けれども、僕はそういった「それくらいのこと」に対してお礼も言えないような人間にはなりたくない。

 『人はときに、「何をしたか」ではなく「何をしなかったか」で評価される』というエントリーを書いたことがあるが、まさにそういうことである。

人はときに、「何をしたか」ではなく「何をしなかったか」で評価される
人から親切にされたり、励まされたり、何かをプレゼントしてもらったり。 叱られたり、笑わせられたり、褒められたり。 罵倒されたり、けなされ...

 あなたは「何をしたか」ではなく、「何をしなかったか」で評価されることもあるんだよと。

 僕は今回、「仕事」の場面を意識して書いたけれど、一度あなたの親しい人に対する態度を思い起こしてみて欲しい。もし、相手の「好意」に対して少なからず「当たり前」と感じている部分があるとしたら、少し思い直して欲しい。

 それは当たり前なんかじゃない。相手にとったら「あなただから」と思ってこその好意かもしれない。

 これはもちろん自戒の念も込めて、いま一度自分の身の振り方を見直したいと思って書いた。

 どんな小さなことにも、きちんとお礼が言える人であろう。

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