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「丁寧な暮らし」とは何か、に対する自分なりの答え。映画『リトル・フォレスト』を見て

 『見たい映画リスト_20140518』というエントリーで紹介した、『リトル・フォレスト』という映画。前編である夏・秋編がiTunesストアでレンタルされていたので早速見た。

参照:『見たい映画リスト_20140518

見たい映画リスト_20140518
 以前にも同様の記事を書いたが、今日は最近気になっている映画を紹介したい。 参照:「見たい映画リスト_20131229」 『スキ...

 この映画を見て感じたことと、最近自分の中で気になっていることがリンクする内容だったので、今日はそのことについて書いてみたい。

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「丁寧な暮らし」とか「地に足のついた生活」という言葉に対する違和感

 最近SNS上で、「丁寧な暮らし」とか「地に足のついた生活」といった言葉をよく目にするようになった。以前はそうでもなかったのだけど、最近どうしてかこういった類の言葉にすごく違和感を感じるようになった。

 これらの言葉は、それ自体にポジティブな響きを持っている。聞こえのいい言葉だ。でも、その定義がハッキリとしないのだ。

 特に、「地に足のついた生活」ってどんなのだろう、って思ってしまう。逆に「地に足のついていない生活」って?

 例えば、定職に就かず海外を流浪するような人の生活は「地に足の付いていない」のだろうか。定職に就いていても、ブラック企業で過酷な労働を強いられる若者の生活もやっぱり地に足がついていない?
 例えば高城剛さんのように、世界中を移動し続けるクリエイターのライフスタイルをつかまえて、「地に足のついた」とか「丁寧な」とかないだろうと思ってしまう。

 私がすごく違和感を覚えるのは、その言葉の定義がハッキリとせず、何を、どういった状態を示す言葉なのかも分からないのに、その響きがなんとなくポジティブで心地良いからという理由だけで、無闇に汎用されていると感じるからだ。その言葉の意味するところも理解せず、「丁寧な暮らしを」とか「地に足のついた生活を」とか言うのは、ものすごく安易で無責任なことのように思える。

 そういう、曖昧で漠然とした言葉によるカテゴライズ自体がナンセンスだ。

 そのあたりのことは、やまもといちろうさんが以下のエントリーでズバッと書かれていた。相変わらずの隊長節で面白い。

参照:『「丁寧な暮らし」とかしてる奴は滅亡しろよ(やまもといちろうBLOG)

映画の感想と、自分なりの答え

 この映画自体は、とてもシンプルで好感の持てるものだった。都会で暮らしていたが、そこでの生活に馴染めず地方へ戻ってきた主人公。彼女が苦戦しつつも、その土地で採れるものを食べ、その場所で暮らすことの魅力や喜びを見出していく。

参照:『映画 リトル・フォレスト 公式HP

 特にこの映画は、見ていてとても「料理がしたくなってくる」作品だった。ウスターソースを自分で作ったり、自家製のホールトマトを仕込んだり。そういうシーンがとても綿密に、リアルに描かれている。
 じゃあ自分も今度作ってみようかなと思うには少しレベルの高いものばかりだったけれど、でも自分が毎日口にするものに対してこだわりを持つということはこういうことなんだなぁと感じた。

 そういう主人公の姿を見て、「丁寧に暮らすとは」ということへの、自分なりの答えのようなものが浮かんできた。
 
 それは、「身の回りにあるものを最大限活用し、工夫を加え、自分の生活をより充足させ質を上げようと試みること」というものだ。もっと端的に言うと、「生きるということに対して、真剣になる」ということだ。

 映画の主人公は、自分が丁寧な暮らしをしているとか、地に足のついた生活を送っているだなんてこれっぽっちも思っていないと思う。それよりも寧ろ、「自分はこのままでいいんだろうか」という漠然とした不安と焦燥感を感じているように見えて、私はそちらの方にとても好感を持った。

 彼女はただ、目の前の生活をできるだけ上手く、効率よく、出来ることなら楽しみながら生きようと試みているだけだ。

 逆説的な言い方になるけれど、本当の意味で「丁寧な」生き方をしている人は「丁寧に生きよう」などと自分では思わないのではないか。

 2/14から、後編の冬・春編が公開になるようだ。近くで上映している劇場を探して、今度はぜひとも映画館で見てみようと思う。

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