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ググらない中高年、寛容のない若者

 インターネットの発達により情報がオープン化され、誰でもいつでも、様々な情報に簡単にアクセスすることが可能となった。Googleで検索することを意味する「ググる」という言葉が象徴するように、もはやインターネットで何かを調べるということは私たちの「動詞」となってしまった。

 Wikipediaは百科事典という存在をもっと身近なものにしてくれたし、nanapiのようなハウツーサイトを見れば大量のお役立ち情報が得られ、Lifehackerが紹介するライフハック術が私たちの生活をより生産的なものにしてくれる。本当に、インターネットは情報の宝庫だ。そしてその宝庫は、今や誰の前にでも広がっている。

 しかし、それと同時に、私たちは何かを安易に理解した気になっていないだろうか?
 大量の情報に簡単に触れられるがゆえに、何かを「深く考える」ということがないがしろにされてはいないだろうか。自らの力で回答に辿り着くのではなく、すぐに答案を見て、理解した気になってはいないだろうか。

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ググらない中高年

 仕事中によく思うことがあるのだけど、今の20代〜30代の人たちって、分からないことがあれば基本すぐにネットで検索する。それがエクセルの使い方だったり、とある商品の評判だったり、英文の翻訳だったり、内容はまちまちだけど、まずは自分で検索してみる。そこから得られる回答が正しいかどうかという問題ではなく、まずは回答を求める先がインターネットだということ。

 対して、それよりも上の世代の人になると、まずは人に聞く。どんな小さなことでも人に聞く。「分からないことはまずググる」というのが当たり前になっている自分にとって、「それくらい自分で調べられるのにな…」と思ってしまうことが、正直よくある。もう少し言うと、「自分で調べようとしないことは怠慢だ」とすら思ってしまう。

 けれども、それは仕方のないことなのかもしれないと考えるようになった。なぜなら、それが彼/彼女らにとってずっと「当たり前」のことだったから。知らないこと、分からないことは詳しい人に聞いて教えてもらうものだった。それ以外の方法といえば、図書館に行って本を読むとか、新聞を読むとか、とにかくものすごくアナログで手間のかかることだったに違いない。

 だから、私たちがすぐにGoogleやYahooで検索するのと同じような感覚で、人に聞いてしまうのだろうと思う。それがいいとか悪いとかそういうことではなく。

寛容のない若者

 対して、先にも述べたように今の20代や30代、デジタルネイティブと呼ばれる今の10代などは、人に聞く前にネットで検索する。スマホがあれば数秒で検索結果が表示され、「ああ、そういう意味なんだ」と、問いと結果が瞬時に消費される。私も、友人たちと話していて、「そういえばこれってどういう意味なんだろう」となると、すぐにスマホで調べ出す。そして、「へ〜、そうだったんだ」とすぐに納得して、次の話題に移る。せわしないと言えばせわしないし、生産的だと言えばそう言えなくもないだろう。

 ただ、そのスピード感に慣れてしまっているからか、他人に対しても「それくらい調べたらすぐに分かるよ」という態度をとってしまうことがある。すぐそこに答えが用意されているのに、どうして知っているかどうかも分からない人に聞いたりするの、と。

 一時期、某掲示板で「ggrks」というワードが流行ったことがある。これは、「ググレカス」という言葉を省略したもので、「それくらいgoogleで調べろよ」という意味の言葉だ。何か分からないことがあり、知りたいと思って質問してくる人に対し、半ば中傷的にこの言葉は使われていた。そんな言葉が生まれるくらい、「ネットで調べられることは人に聞いてはいけない」という暗黙のルールのようなものが出来上がっていった。

 私もいつの間にか、そういった「自分で調べられることは自分で」という立場にたっていたのだけど、これは実はとても危ういことなのではないかと感じるようになった。

何かを知っていることと、何かを理解していることは違う

 私がある時から強く意識していることがある。それは、「他人に説明できないことは、自分でも理解できていない」ということ。これって当たり前の話なんだけど、はっきりと自覚できている人って意外と少ない気がしている。

 もう少し掘り下げて言うと、「情報や知識として知っていることと、そのことを理解しているということはまるで違う」ということ。

 例えば、「日本ではコンビニの数よりも歯医者の数のほうが多い」という事実がある。

参照:『歯科医師過剰問題(Wikipedia)

 このことを、ひとつの事実として、情報として知っているというのと、「なぜそうなのか」というところまで深堀りして理解しているのか、という違いだ。前者がただ「知っている」という状態で、後者はきちんと「理解」していることになる。

 私が「危うい」と感じるようになった理由は、ただ検索して情報に触れるということは、まさにこの「知っている」という状態に浸るだけなのではないかと感じたからである。誰かが先に調べて書いておいてくれていることを、「あ、そうなんだ」と、まるで自分の知識のように感じて満足してしまう。そこに辿り着くまでの苦労も、知的興奮もない。
 それらがなければ知識として認めない、と言っているわけではない。簡単に、膨大な情報にアクセスできるということは、それだけで素晴らしいことだと思う。ただ、情報に触れるだけで何かを理解した気になってしまうことの危険性は孕んでいる。

人に説明することで、自分が何を理解できていないのかが分かる

 以前、これからは「説明する力」が大事になってくるという内容のエントリーを書いたことがある。

参照:『21世紀型スキル。「説明する力」

21世紀型スキル。「説明する力」
 最近読み始めて、すっかりファンになってしまったブログがあります。 「セブの森せんせいの日記」  元小学校教員で、現在はフィリピ...

 人に何かを説明しようと試みることで、自分が何を理解していて、何が理解できていないのかということが分かるようになる。繰り返しになるが、自分が理解できていないことは、他人に説明することはできないからだ。

 そういった意味で、誰かに何かを質問されるというのは、説明という機会を得る絶好のチャンスだ。そこで「それくらい自分で調べて…」というのは、「自分も知りません。分かりません」と言っているのと同じで、あなたは何もえらくない。

 そういうふうに考えると、「ggrks」などという言葉は、発言者自らの無知を晒すことにもなりかねない。そのことについて知っていて、本当に理解できているのであれば教えてあげればいいし、知らないのであれば「知りません」と素直に言えばいい。

 まずは自分で調べてみようという姿勢ももちろん大事だとは思うけれど、誰かに質問されることも、考えようによっては貴重な体験だ。

 誰かに何かを聞かれたとき、それはあなたが何を本当に理解しているかを問われているときなのだ。

※ちなみに、今日のタイトルは村上龍の『逃げる中高年、欲望のない若者』というエッセイから引用した。

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