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【高城剛メルマガ】「非日常に喜びを感じるのは危険。いかに日常の中に喜びを見出せるかが大切」

 あなたにとっての「非日常」とはどのようなものだろうか?
 知らない土地や国に出かけて行くこと、新しい人と出会うこと、新しい何かを始めること…
 毎日繰り返される「日常」からの小さな(ときに大きな)逸脱。そこから得られる刺激や興奮、感動や気付きは、ときに人生を大きく変えてしまうことだってあるかもしれない。

 非日常な体験から新たなアイデアを得て、ビジネスを始める人もいるだろうし、突発的に訪れた異国にそのまま移住してしまったり、そこで出会った人と一生を共にすることになる人もいるだろう。

 私たちは、日々の生活の中で無意識的に「日常ではない何か」を求めている。ここではないどこか、この仕事ではない何か、こんなはずではない自分…

 かくいう私も、旅行に行くのが大好きなのだけど、それはまさしく「非日常」を体験できるからであり、それはそのまま日常からの脱出に繋がるからだ。だが、今週の高城剛さんのメルマガで、「非日常に生の喜びを感じるのは危険」と書かれていて、その内容がとても的確だったの今日はそのことについて書いてみたい。

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大切なのは、なにげない日常に喜びを見出せるかどうか

 このブログでも何度か紹介した高城剛さんのメルマガ。その中で、読者からの質問に高城さんが答えるQ&Aコーナーがある。

昨年末、高城剛さん初の電子書籍「白本」が発売されました。 白本posted with ヨメレバ高城剛 2013-12-24 K...

 今日取り上げたいのは以下の応答について。

質問者(Q)
 いつもメルマガ楽しみにしています。ありがとうございます。高城さんはどんな時に生きていることを実感されますか?私は、漠然としていますが、日本を出た時に生きていることを強く感じます。18歳ぐらいから海外に行きたいという思いが芽生え始めて、21歳の時に初めて中国へ行き、別段一人で何とかしないといけなかったわけでも、危険な目に遭ったわけでもありませんが、滞在中に「あ、俺いま生きてる…!」と感じました。それ以降も中国のみですが、10数回の訪中のたびに生を実感しました。高城さんはこれまで結構危険な経験もしてこられたようですが、どんな時に/どんな場所で生を実感されますか?(もしかして「常に」ですか?!)

 この質問に対し、高城さんは以下のように答えている。

高城剛(A)
 車の助手席に座っていて、「この人、運転が上手だな」と感じさせるようなドライバーは二流だと言われています。一流のドライバーは、同乗者に絶対に「運転が上手だ」とは、感じさせないものなのです。同じように、もし、ご質問の「生きている実感」が、普段と違うことで気がつかないうちに出ているアドレナリンだとすると、それはあまり良いことではありません。日常とは違う感動や興奮に、人生の喜びを見出すようになってしまうのは少し問題で、なぜならそれを求める癖がついてしまい、感情の起伏が激しくなってしまうからなんです。大切なのは、なにげない日常に喜びを見出せるかどうかだと思いますよ。僕自身、生きている実感を格段得ることはありませんし、なにしろ、生きているわけですので、感じる必要も考える必要もないからなんだと思います。非日常を「生」だと勘違いすると、その道は遠からず「死」につながりますよ。(Q & A ともに『高城未来研究所「Future Report」Vol.193/Part2』より)

 高城さんのこの回答を読み、ギクリとしたというか、自分にも当てはまる部分が多分にあるなと感じた。私は「同じことをし続ける」ということに対する拒絶感があり、ある程度続けていることでも、ある日突然やめてしまったりする。「同じことしかしていない自分」に嫌気が差してくるからだ。

 旅に出たり、興味を持った人に会いに行ったりするのは、そういった自分を否定するためであり、「新しいこと、日常ではないことをしている自分」を感じたいからではないのかという考えがよぎった。何かを変えるためには、今とは違うことをしなければならないという危機感が常にある。そして、そういった行為に自分も「生の喜び」を感じているのではないか。高城さんの回答はそんな自分にハッとした気付きを与えてくれた。

非日常に喜びを見出すのはなぜ危険なのか

 では、なぜ非日常に喜びや生きがいを見出すことが危険なのだろうか。高城さんは「それを求める癖がついてしまい、感情の起伏が激しくなってしまうから」と述べられているが、他にも以下のようなことがあげられると思う。

普段と違うことをすることでしか満足を得られなくなる

 非日常に喜びを見出せば、反比例するように日常が退屈なものに思えてくる。刺激を得るためには、何か突拍子なことや、極端なことをしなければならないという強迫観念に囚われる。まったくそんなことはないのだけど、「退屈なのは平凡なことしかしていないからだ」という勘違いを起こしてしまうのだ。

行為がエスカレートする

 上記がエスカレートすると、「より極端で、より危険な行為」を求めるようになってしまう。単なる海外旅行では飽きたらず、危険な紛争地域に行こうとしたり、アポもなしに突然人を訪ねたり。より刺激を得るために、よりエスカレートした行為に走ってしまう。

ルーティンがくだらないものに感じられてしまう

 変化を求めるあまり、日々の積み重ねであるルーティン作業をつまらないものに感じてしまう。ルーティン作業の効力を見くびり、「もっと新しいこと、もっと違うこと」を求めるようになってしまう。

 だからこそ高城さんは、「大切なのは、なにげない日常に喜びを見出せるかどうか」だと述べられているのだと思う。そして、高城さんのように世界を飛び回り、明日はどの国にいるかも分からないような、まさに「非日常」な人生を送られている方が言うとよけいに真実味がある。というか、高城さんのこの発言はとても意外だった。

 いかに日常の中に喜びや楽しみを見出だせるのかというのは、逆に言うと、いかにして喜びや楽しみを日常化できるかということでもある。
 隠居系男子というブログを運営されている鳥居さん(@hirofumi21)なんかは、ブログを毎日書くのはルーティンが好きだからだと仰っている。

僕が毎日ブログを書く3つの理由

 このように、自分が毎日行うことに愛着が持てたり楽しみながら取り組めれば、それはそのまま日常の喜びや楽しみに繋がるのではないか。何か特別なことをしなくたって、日々の生活から充足感を得られるようになるのではないだろうか。

日常/非日常、両方たいせつ

 とは言え、やっぱり非日常な体験もそれはそれで楽しいし、刺激的なのは事実だ。よくないのは、毎日がくだらないものに思えて、その反動で非日常な行為に走ってしまうこと。

 いちど、毎日の行動を振り返り、見なおしてみよう。
 毎日がつまらないから何か特別なことをしようとするのではなく、毎日が楽しくなるような工夫を重ねよう。日常のくだらなさから非日常に逃げ込むのではなく、日常の延長線上で、非日常へ出掛けていこう。

 日常をよりおもしろいものにするために、ときに非日常な何かが必要であり、非日常から刺激を得るために、日常の積み重ねが大切なのだ。

 あなたはどれくらい「日常」に満足し、喜びを見出しているだろうか。

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