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書き直せ、何度でも

 以前、「もっとうまく書きたい」という欲求は取りあえず封印し、まずは完成させることが大切だと書いた。

 この考え方は今も変わることはなく、むしろ以前よりも強くそのことを認識するようになった。

 「読書猿」という、ものすごく勉強になるブログがある。更新頻度はさほど多くはないが、ひとつひとつの記事の内容が濃く、特に文章を書く人にとっては非常に参考になるものばかりだ。
 先日更新された以下の記事を読み、改めて「完成させること」がいかに重要かを知った。

 首を縦にぶんぶん振りたくなるくらい共感できる内容だったので、一部を引用してみたい。

 だが、上達のためには、「どのように書けばいいか」悩むよりも、最後まで書き終えることを優先したほうがいい。
 
 どう書こうか悩むことと、実際に書くことは、上達に関していえば等価ではない。
 言うまでもなく、実際に書いた方がずっと上達に寄与する。
 どんなものであっても(たとえ目を背けたくなるようなしろものであっても)書き終えることで、人は多くを知ることができ、次のステージに進むことができる。
 
 これらから導かれるのは次のことである。
 「もっとうまく書けるかも」という妄執をやめれば、人はもっとたくさん書くようにもなるから、最終的には、よりうまく書けるようにもなる。

 「書き終えることで、次のステージに進むことができる」と書かれている。では、次のステージとはどのようなところだろう。それは、書き直すこと、すなわち「推敲」だ。

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何度でも書き直すこと

 先日惜しまれつつも終了した、村上春樹さんへの質問サイト「村上さんのところ」。読者から寄せられるさまざまな質問に村上さんが答えるという形式のもので、SNS上でもしょっちゅう話題になっていた。このブログを読んで頂いている方の中にも、実際に質問を送った方や、村上さんから回答を頂けたという方もいるかも知れない。
 私はそんなに頻繁にチェックしていたわけではないけれど、いくつかとても印象に残る応答があった。その内のひとつが、「文章の書き方を学びたいのなら」というタイトルのもの。

 小説家になりたいという高校生の質問者に対し、村上さんはこんなアドバイスを送られている。

自己表現をするにあたっての僕のアドバイスは、レイモンド・カーヴァーが大学の創作講座で学生たちにしたアドバイスとまったく同じものです。「書き直せ」、これがすべてです。いろんなものを書き散らすのではなく、ひとつのことを何度でも何度でも、いやになるくらい書き直す。これが大事です。その作業に耐えられない人は、まず作家にはなれません。(村上さんのところ)

 それではなぜ、「何度も書き直すこと」が大切なのだろうか。

推敲とは、不完全な自分との対話

 まず、完成させた文章を書き直すという作業は、決して楽しいものではない。なぜなら、それは自身の不完全さ、未熟さと対峙することであり、それらを認めることでもあるからだ。言うなれば、推敲作業とは、徹底的に自分自身と向き合うことでもある。

 目の前にあるのは、納得できないながらも必死に完成させたひとつのまとまった文章。それに対し、自分でダメ出しを繰り返しながら、少しでもマシになるように改善を重ねていく。そういった作業は往々にして、「いかに自分には才能がないのか」という身も蓋もない事実を思い知ることでもある。
 当然のことながら、それらは辛いことだし、心が折れそうになることだってある。嫌気が差し、途方に暮れることだってあるかもしれない。

 だが、「今の自分はこの程度のレベルなのだ」という認識と、そこから脱しようと試みることが大切だ。推敲とはまさに、そういった確認と挑戦の作業なのだ。

僅かながらに進歩していくこと

 推敲とは決して、10の出来のものを100に変化させるようなものではない。実際はもっと地味で、地道な作業になる。10だったものを、10.5や11にしていく、そんな微々たる改善を重ねる作業なのだ。

 例えば、句読点の位置を少し変えてみる。ある単語を、別の単語に変えてみる。誤字脱字の発見といった基本的な部分から、比喩の挿入、パラグラフの入れ替えなど、行う作業は多岐にわたる。
 そして何より、そういった一連の作業のあいだ中ずっと、自分の不完全な文章と向き合わなければならない。

 こんなことが書きたかったんじゃないのに、もっと別のものができ上がっているはずだったのに、、、という不満をずっと頭の片隅に感じながらも、できる範囲での改善を試みる。

 そうやって少しづつ、「こんなものが書きたかった」という理想に近づけていくのだ。

自己認識と、そこからの脱却

 前述の読書猿さんの記事からもうひとつ引用したい。

 ヒトとしての成熟が、「自分はきっと何者にかなれるはず」と無根拠に信じていなければやってられない思春期を抜け出し、「自分は確かに何者にもなれないのだ」という事実を受け入れるところから始まるように(地に足の付いた努力はここから始まる)、書き手としての成熟は、「自分はいつかすばらしい何かを書く(書ける)はず」という妄執から覚め、「これはまったく満足のいくものではないが、私は今ここでこの文章を最後まで書くのだ」というところから始まる※。(読書猿)

 推敲には、ふたつの重要なパートがある。

 まずは、自分の文章を何度も読み返すことによって、「自身のレベルを知る」というパート。それは自分を喜ばせることよりも、ガッカリさせることのほうがずっと多いだろう。だがこれは、「自分が書きたいのはこんなものじゃないんだ」という現実逃避ではなく、「今の自分には、この程度のものしか書けないんだ」という正しい自己認識を与えてくれる。
 そこで初めて、次の「そこから脱却する」ためのステップに進めるのだ。

 自分が書いたものは決して満足のいくものではないが、それを認めた上で、自分はこれを少しでも良きものにしていくのだという意思を持つこと。何度も書き直し、推敲を重ねるという作業は、そんな泥臭い作業なのである。

 先に紹介した村上春樹さんの回答でも、「その作業に”耐えられない”人は、まず作家にはなれません。」と書かれている。これはつまり、自分が書いたダメな文章に、向き合う勇気の無い人はダメですよ、というふうにも受け取れる。

 私のような凡人にとって、美しい文章や力強い文章といった「理想の文章」は、書こうと思って書けるものではない。何度も何度も推敲を重ね、理想の文章に「近づけていく」のだと思う。

 最後に、私の大好きなブログ「#RyoAnnaBlog」の人気記事から引用して終わりたい。

私は美しい文章を書けるわけではない。プライドを持って推敲を重ねているだけだ。

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