スポンサードリンク

後日談のような人生

 ときどき、自分の人生のピークはいつだっただろうかと考えることがある。「いつだっただろうか」ということは、すなわちそれは「すでに過ぎ去ってしまった」という前提に立っている。こんなことを言うと、「その歳で何を言っているんだ。それはこれからやってくるものだよ」という声が聞こえてきそうだ。

 もちろん、それは「これからやってくる」ものなのかもしれない。しかし、「これからやってくるかもしれない」という可能性を考慮するのであれば、同じように、「それはすでに過ぎ去ってしまった」という可能性についても考慮しなければならない。

 自分の人生を振り返ってみると、いくつかの忘れがたい出来事や、人生の転機とでも呼ぶべき出来事があった。誰だって、多かれ少なかれそういう経験をしているものだろう。

 何をもって人生のピークとするのかは、難しい問題だ。例えば、仕事にしろスポーツにしろ、何事かを成し遂げたときをピークだと定義することもできるし、結婚すること、子供ができることがピークだと捉える人もいるかも知れない。人生でいちばん美味しいものを食べられたときが人生の頂点だと感じる人もいるかもしれないし、そもそもそんなものは無かったと言う人もいるかもしれない。

 そして、そのピークを人生の最頂点だと捉えると、そこを越えた後はただひたすら下るしかない。多少の上下はあるのかもしれないが、株式や為替のチャートで言う下落トレンドに突入する。

 いつくらいからだったか、私は”後日談のような人生”は、絶対に送りたくないと思って生きてきた。あれから10年後、、、みたいな、「その後の人生」みたいな世界には、存在すらしていたくなかった。いろんな物事がすでに過ぎ去ってしまった、余暇のような人生、ただひたすら時間を消費するだけの人生、そんなふうに惰性で人生を生きることに、何の魅力も、意味も見出だせなかったし、今も見出だせずにいる。

 ただ長く生きるということに、私は重きを置いていない。それは私の、人生におけるプライオリティのかなり下位にランクインしている。こういった死生観のようなものは、ある程度生まれ持ったものというか、傾向のようなものであると感じる。
 例えば、私はなぜだか若くして死んだ人に惹かれる傾向がある。映画『イントゥ・ザ・ワイルド』の主人公、クリス・マッカンドレスしかり、『二十歳の原点』の著者、高野悦子さんしかり。どこか破滅的で、刹那的な生き方を選んだ人にどうしようもなく惹かれてしまう。

 だからと言って、私もそういった生き方がしたいかというと、それは少し違う。彼らのような生き方は、憧れて模倣するようなものではない。そういった生き方を選ぶ人というのは、「そうせざるを得ない」のだ。そういう生き方しかできないのだ。

 ずっとバンドをやっていた友人がいて、彼と飲みに行って酔っ払うと、よくそういう話をする。彼は、27歳のときに死のうと思っていたと言っていた。理由を尋ねると「ニルヴァーナのカート・コバーンが自殺した歳だから」ということだった。
 
***

 とりとめのないことをぐだぐだと書いてしまったけれど、私は決して自分の人生を悲観しているわけでも、何かを諦めているわけでも、絶望しているわけでもない。

 でも、ときどき無性に無力感に囚われることがある。そんなときは決まって、自分の人生が「後日談のような人生」に感じられてならない。

 過去を悔い続ける人生というのは辛いものだけど、未来に何かを期待し続ける人生というのも、同じように辛いものだ。

スポンサード リンク
スポンサード リンク

気に入ったらシェア!

スポンサード リンク
スポンサード リンク