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「縁がなかった」というのは都合のいい解釈に過ぎない

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 10年ほど前、オーストラリアに住んでいた頃、とてもお世話になった人に「人との出会いは縁だよ」と言われたことが何度かあった。「運と縁とタイミング」というのがその人の口癖で、当時の私にはあまり理解できなかったので「ふ〜ん、そういうもんなんですね」と適当に流していた。けれど、今、自分が当時のその人の年齢になり、「まあ、そういうことってあるかもしれないな」と、ようやく少しは理解できるようになった。

 生きていれば、自分の思い通りに進むこともあるし、まったく自分の思い通りにならないことだってある。割合としては、後者のほうが圧倒的に多いだろう。そんなとき、「それは縁がなかったってことだよ」という言葉をかけられることがある。言った本人は慰めのつもりで言っているのか、それとも本気でそう思っているのかは分からないけれど、実は私はその「縁がなかった」という言葉も、解釈も、考え方も、そのすべてが好きではない。

 私にとってそれは、「過去を都合のいいように解釈しているだけ」に感じられてしまうからだ。

 縁という言葉は便利だなと思う。上手くいっているときには「縁があったんだ」と肯定的に使えるし、上手くいかなかったときにも「残念だけど、縁がなかったんだな」と、あたかも「自分に非はない」かのような解釈ができてしまう。

 上手くいったときの「縁があった」はいいとして、上手くいかなかったときというのは必ず何かしらの理由がある。その理由なり原因を突き止め、同じ過ちを繰り返さないための対策を講じることに意味があるのであって、「縁がなかった」という言葉はそういった直視すべき現実にフタをしてしまい、思考を止めてしまう。「縁がなかった、ならしょうがない」と。

 決断すべきときに決断せず、行動すべきときに行動せず、その結果おとずれた現実に対して、「縁がなかったっていうことにしておこう」と自分を納得させるのは、ものすごくずるいし卑怯な行為だと思う。それは相手に対しても失礼だ。自分の至らなかった点を見つめなおし、どうすればいいだろうかと考えることは、辛いししんどいことだけれど、そういった「痛み」からしか学べないことは確実に存在する。

 「縁」という概念というか、そういうめぐり合わせのようなものが存在すること自体は否定しないし、本当にそういったことを実体験として経験している人もいるのだろう。でも、何かあるたびに「縁がなかった」なんて言っている人は、結局、一生何にも縁のない人生を送ることになるのだと思う。

 結果的に「縁があった」と思えるような現実を手にしている人たちは、少なからず自分で決断し、行動してきたのだろう。だから「縁なきもの」を「縁のあるもの」に変えられたのだ。

 縁という言葉は、ものすごく努力して何かを手に入れた人が、謙遜として使うような言葉であって、何かを果たせなかった理由として使う言葉では決してない。

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