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自分にとって写真を撮るとはどういうことか

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 先日、ときどき一緒に写真を撮りに行ったりする友人とお互いの「写真観」のようなものについて話していて、お互いに考えていることがまったく違っていることが発覚した。

 もちろん、一口に「写真好き」「カメラ好き」と言っても、動機や求めているもの、何に魅力を感じていて、どこに面白さを見出すのかというのは人それぞれである。だから、写真に対する考え方が違っていても、別段珍しいことではない。でも、あらためてその違いを認識させられると、純粋に「おもしろいなあ」と思った。

 僕は撮った写真をガンガン加工する派で、いちどPCに取り込んですべてチェックしたいタイプである。いっぽう、その友人は撮った写真には手を加えたくない派で、そのままiPadに取り込んだりするのだそうだ。

 その友人曰く、

  • 写真とは撮った瞬間に完成しているものである
  • 撮ったものを後から加工するというのは、現実を変更してしまうことである
  • 目に見えているものをそのまんま写すのがいちばんいい

のだという。

 僕も彼の言っていることは分かる。確かに加工の行き過ぎた写真というのはあまりにも現実離れしていて、もはやグラフィックデザインにしか見えない。「裸で勝負」じゃないけれど、なんにも飾らない状態で魅力的な写真を撮る、というのはカッコいいと思う。でもそれでも、僕は撮った写真には必ず手を加えたいと考えている。それは、僕が写真のどこに魅力を感じているのかという話に繋がる。

 僕の思う写真の魅力とは、世界を切り取ってまた違ったふうに見せることができる、というところにある。もっと分かりやすく言うと、目の前にある景色や人やモノが、写真にすることでまったく違う光景に変わる、というところだ。

 「いい写真」という基準もまた曖昧だけれど、それらは何も極地などの特殊な環境下や、特別な瞬間を捉えたものだけを指すわけではない。日常にありふれた光景を捉えた写真でも、素晴らしいものはたくさんある。むしろ僕は、そういった「何でもないもの」を撮った写真が好きだ。例えば電柱や電線、街路樹や駅を行き交う人々、机の上のコーヒーカップやボールペン、お昼ごはんを口に運ぶその指、そんな、僕らが日々目にしているなんやかんやは、写真にすることでまた違った魅力を放つことがある。そこにあるのは何でもない、普通のどこにであるマテリアルなのに、時間を静止させた写真で見ることで、なぜかは分からないけれど「あ、これいいな」と思うのだ。

 だから、僕が写真を撮る理由というか動機みたいなものは、「いかに目に映っているものと違うものを見せられるか」という点にある。あなたが見ている世界は写真にするとこんなふうにも見えるんですよ、というものを撮りたいのだ。加工というのは、そのためのツールというか、補助的な役割を果たす。加工と言っても、僕がやっているのはMacに標準でインストールされているiPhotoで行えるようなレベルのもので、傾きやコントラストの調整、あとはモノクロに変えたりする程度のものである。

 でも、撮った写真は必ずすべて目を通し、気に入らないものはその場ですぐに削除する。そして残ったものに対して、微調整を加えていく。

 こういった作業を行うのは、先日のエントリでも書いたとおり、やはり写真は「誰かに見せるものだ」という思いが根本にあるからだと思う。

 すごく大げさに聞こえるかもしれないけど、誰かに写真を見せること、それはつまり、誰かに「新しい世界」を見せることに他ならないのだ。

 僕にとって写真を撮るということは、文章とはまた違った形で「自分の是非を問う」行為なのである。

誰かに写真を見せるということ
 自分は「写真が趣味です」と言えるほど写真やカメラに傾倒しているわけではないけれど、最近は写真に対する向き合い方というか、接し方が変...

noteでも書いてます:

 写真家、森山大道の『もうひとつの国へ』というエッセイを読んでいる。 この本の帯には、こんな一文が添えられている。 「火曜日、記すべきことなし、存在した。」というのはジャン・ポール・サルトル「嘔吐」の中のワンフレーズである。 僕はもう、これだけでご飯3杯くらいいけてしまうくらいこの一文にやられてしまった。 これは森山...
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