空港から一歩出るとそこには、灼熱の太陽に晒された椰子の木が黄土色の土の上で葉をなびかせていた。
懐かしいような、でも初めて嗅ぐ匂い。
ああ、自分はまた海外へやって来たんだと思った。
2012年の8月、私はカンボジア シェムリアップへ旅に出た。
カンボジアを選んだ理由というのは、「綺麗なもの」ではなく「何か生々しいもの」にその当時は興味を持っていたからだ。
美しいものではなく、もっと混沌として逼迫した空気を味わいたいという強烈な欲求があった。
その当時はきっと、「何か強烈なもの」を見て自分の立ち位置を確認したかったのだろう。
つまるところ私は、「貧困国」に行ってみたかったのだ。
最終的にカンボジアに決めたのは、どうしても見たいものや行ってみたい場所があったからではなく、「なんとなく」というのが正直なところである。
まあアンコールワットも見れるしな…という軽い感じで決めた。
そして特にリサーチするわけでも、計画を練るわけでもなく、本当に無計画なままカンボジアに降り立った。
だけど、アンコールワットは本当にすごかった。
「異世界」とはこういうことを指すんだと思った。
今まで私は、「歴史」や「遺跡」といったものにあまり興味を持つことがなかった。
なぜかは分からないけれど、それほど心を惹かれることがなかったのだ。
でもアンコール遺跡をひとりで黙々と歩いていると、何とも言えない不思議な感覚に包まれた。
今だから冷静に分析できるのだけど、なんだか過去にタイムスリップしたような気分だった。
真夏なので当然暑い。ものすごく暑い。
おまけにスキニーのデニムなんて履いていったものだから、汗でくっついてものすごく不快だった。
でも、真夏の太陽の下で、ひとりでアンコール遺跡の中をひたすら歩き回っていると、
「自分には出来ないことなんて何もないんじゃないか」というような不思議な高揚感に包まれた。
たぶん、「汗をかきながら歩き回る」というフィジカルな行為も影響していたのだと思う。
過去の蓄積と、崩壊の過程。
目の前にある壮大な光景に、ただ圧倒されていた。
「来てよかった」「来れてよかった」と、自分自身に納得することができた。
でも私がこのカンボジア旅行で、一番心に残っていることはアンコール遺跡を見たことではない。
それは、アンコール遺跡をひと通り見て回った(丸2日費やした)後、宿泊していたホテルの近くにあるバーやカフェが集まるストリートの一角の、とあるカフェで昼食をとっていた時である。
そこのカフェは旅行者向けのお店で、西欧人が多かった。
当然、というべきか、現地人の客は一人もいない。
私は遺跡巡りの後は特に予定も立てず、昼からビールを飲んでのんびり過ごしていた。
(Angkor Beerはなかなか美味しかった)
そのカフェで、ピザをかじりビールをすすりながらふと、強烈な幸福感に包まれた。
自分はここではマイノリティであり、異物であり、そして何者でもないのだ、と。
私がどこの国から来て、どんな会社に勤めて、どんな仕事をしているのか。
結婚はしているのか。兄弟はいるのか。恋人はいるのか。
何を目指していて、今何に迷っているのか。
自分は何故、ここにいるのか。
周りに日本人は一人もいなかった。
ここで日本人はお前ひとりだぞ、と自分に言い聞かせた。
「誰もお前のことを知っている奴なんていないぞ」と。
その時に感じた、「自分は何者でもない」という強烈な開放感。
この感覚が好きだから、自分は旅が好きなんだろうなと思った。
そして、この感覚を何度も味わいたいからこそ、自分は旅を続けるのだろうと思う。
自分は何者でもないんだという自覚と、何でもやれるんじゃないかという錯覚。
これが私が旅に求めるものである。
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