普段使わない脳の領域が開放されるからだろうか、旅に出るとほんとうに色んなことを考える。
目の前に広がる、見たことのない景色。いつもとは違う匂い。
僕が生まれるずっと前から蓄積されてきたであろう空気のかたまりにすっぽりと包まれる。
僕という人間は間違いなく同じ人間なのに、ほんの少し違う人間になった気がするから不思議だ。
愛媛県松山市には、路面電車が走っていた。
路面電車を見ると僕はいつも、オーストラリアのメルボルンを思い出す。
そこで僕は生まれて初めて路面電車に乗ったのだ。
それからというもの、僕にとって路面電車とは人生における最も輝かしい時期のモチーフのようなものになっている。
松山市のそれは、メルボルンのトラム(オーストラリアではこう呼ばれていた)に比べるといくぶんレトロで、小ぢんまりとしていて、いかにも日本的だった。
決して威張ることなく、景色にしっくりと馴染んでいた。
路面電車は一定のスピードで僕達を運んでくれる。
男も女も、子どもも大人もお年寄りも、ゲイもレズもみんな関係なく、その箱の中に居るかぎり平等に進んでいく。
あれは確か、道後温泉でひとっ風呂浴びた後に、愛媛県立図書館に向かっている途中だったと思う。
外はあいにくの雨で、僕は後ろの方の席に座り、進行方向とは逆の窓から後方に広がる景色をぼーっと眺めていた。
そして僕は、唐突にある考えに突き当たった。
「気付いた」のでも「理解した」のでもなく、既に知っていた明瞭な事実を、改めて「確認した」という表現が一番的確だ。
それは、「人生は決して後ろ向きには進まないんだ」ということ。
窓の外には、同じ方向を目指す車や、すれ違う車、途中で右に曲がる車や道路を横切る人達、途中から合流してくる車や同じスピードで並走するバイク。
そこに居座ることを決めた木々や、未だに目的地を決めかねている花びら。
そういったなんやかんやを見ていると、まるで人生の縮図を目にしているような気持ちになってきた。
路面電車の後部ガラスから、自分の人生の軌跡を眺めるみたいに。
路面電車は進み続ける。
なおすれ違い続け、なお合流し続ける。
自分の人生において、ある時期をともに過ごした人々、途中から同じ方向を目指すことになった人々、今から交差しようとする人々。
僕の人生は前に進みこそすれ、後ろに引き返すことはできない。
この路面電車のように、進み続けるしかない。
初めて訪れた愛媛県松山市という土地で路面電車に揺られながら、僕はそんなことを考えていた。