先日、脳科学者の茂木健一郎さん(@kenichiromogi)がTATTOOについて言及した一連のツイートが議論を呼んでいた。茂木さんが主張していたことをざっくり一言で言うと、「TATTOOを入れているという理由で差別することは、ナンセンスで前近代的で時代錯誤で排他的で無意味だ」というものだった。
これに対し、50万人(!)を超える氏のフォロワーからは、様々な反論や同調する意見が寄せられたようだ。1割が賛同、9割は否定的な意見で、中には罵倒、誹謗中傷に近いものもあり、氏もかなり熱くなって議論に参加していた。
ワールドカップサッカーを見ていると、タトゥーをしている選手なんて、普通にいる。タトゥー、刺青は入浴お断り、という不当な差別をしている限り、日本の温泉の世界遺産登録は無理だね。
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) 2014, 6月 16
タトゥー、刺青に対する差別はいけない、というのは当然だと思っていたが、一部の人が、反論罵倒してくるのでびっくり。構造は、在日の方への差別と似ているように思う。差別という感情の対象が変わるだけ。もちろん賛成して下さる方も多数。大いに議論したらいいと思う。
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) 2014, 6月 17
じり(6)刺青やタトゥーが好きではないとか、親にもらった身体を傷つけるのはうんぬんという方もいた。その方の感性、美意識はそうなのでしょう。だからと言って他人がそういう選択をしたということにとやかく言う権利はない。自分は金髪に染めたくないからと、染めている人を差別するのはおかしい。
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) 2014, 6月 17
貼り紙、つくった。全国の温泉、公衆浴場関係の方、ぜひ、ご活用ください!!!! pic.twitter.com/muPpReF1jx
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) 2014, 6月 17
私は茂木さんの意見に100%賛同するのだけど、やはり未だに、日本ではTATTOOを入れている人に対する偏見は根強いのだなと思った。
一連のツイートを見ていると、「そういうのを見るだけで不快な気持ちになる人もいる」という意見が多かった。確かに、そういった人は決して少なくない一定数存在するのだろう。
「刺青、TATTOO」=「暴力団、やくざ」という、日本人が持つ根強いイメージが影響しているのだと思うけれど、実際刺青やTATTOOにはそういった「個人や組織の示威」といった側面もあるので、ある程度は仕方の無いことかもしれない。
しかし、見ていて不快になるからと、その人が元来有する資格や権利を奪っていいわけではない。「不快になる」という感情は、あくまで主観的で個人的なものに過ぎないのだから、その個人的な感情で他者を縛ることは許されない。
この茂木さんのツイート内容は、Twitterに限らず様々なSNSやWEBメディアでも反響があったようだが、Facebookで見かけたある投稿に私は非常に違和感を感じた。それは茂木さんの主張に異議を唱えるもので、こういった趣旨のものだった。
「人種や性別、障害、容姿など、生来の差異によって差別を受けることは許されない。だが、自ら『他人との差異』を選んでおいて、都合の良い時だけ「差別だ」なんて言うんじゃない」
これは一見筋の通った意見のように見えるのだけど、言っていることは「差別されたくなければ皆と同じでいろ」ということである。こういう人は、生来的な差異による差別は許されないが、故意に選んだ差異による差別は「仕方のないこと」と考えているのだろうか?
日本人はよく、「同一性、協調を重んじる民族だ」と称されるが、これは裏を返せば異物や異端を認めない、とても閉鎖的で排他的な民族であるということでもある。単一民族で、周りを海に囲まれ、日本語だけ話せれば事足りて、移民を受け入れているわけでもない国なのだから、仕方がないと言えばそれまでなのかもしれないが、「未だに」そういった考え方の人が多いという現実に時々辟易とさせられる。
果たして、多様性を認めること、多様性のある社会とはどういったものなのだろうか。
私は、「個人の意思や欲求に伴い選択された他人との差異」を認める社会こそが、「多様性のある社会」なのだと思う。自ら選び取った、他人とは違う個人を受け入れてくれる社会こそが、目指すべき社会だと。
「人種や性別、障害、容姿など、生来の差異」による差別を受けない社会など、「多様性のある社会」なんて呼ばない。そんなものは当たり前の話で、「多様性」という表現さえ間違っている。
皆と同じでいることを強要されない、他人と違うことがが当たり前のこととして、明白なコンセンサスとして存在することこそが、本当に「多様性を認める」ということなのだと思う。